井戸端の夜
第六話 井戸端の夜
一
消灯の鐘が鳴って、半刻が過ぎた。
メイリンは寝台の上で、天井を睨んでいた。行かない、と決めては、来なければこちらから行くぞ、という声を思い出す。あの人は、やると言ったことは本当にやる。
(行くしかない)
そっと起き上がり、靴を手に取る。足音を殺して戸口へ向かおうとした時、暗がりから、小さな息遣いが聞こえた。
小燕だった。薄く目を開けて、こちらを見ている。
呼び止められる、と身構えた。けれど彼は、唇の端だけで、ふっと笑った。
「いってらっしゃい」
声にならない声だった。丸太の下から助けた日から、彼はずっと、何も聞かずにいてくれる。メイリンは、一瞬ためらってから、軽く頭を下げて、部屋を出た。
二
東の井戸端には、細い三日月が映っていた。
石の縁にもたれて、彼は待っていた。礼服ではない。二か月前、町で会った時と同じ、着崩した質素な衣だった。
「来たな」
振り向いた顔は、笑っていなかった。
「……護衛の任務の続きですか、殿下」
「違う」
「では、何のご用でしょう」
「とぼけるな、メイリン」
名前を呼ばれた。たったそれだけで、胸の奥が軋んだ。
「人違いです」
「立ち方。息の継ぎ方。人の目を見る時に、先に右の肩が動く癖。剣を構える前に、一度だけ瞬きをするところ」
ひとつずつ数えながら、彼は近づいてくる。
「それに、手首の紐だ。全部、俺が見てきたものだ。間違えるはずがない」
逃げようとして、足が動かなかった。袖の中で、拳を握りしめる。
彼は手を伸ばし、メイリンの短い髪に、そっと触れた。
「切ったのか」
「……はい」
「長いのも綺麗だった。短いのも悪くない」
声が、少し震えている。
「どっちにしろ、お前だ」
視界が滲みそうになって、メイリンは唇を噛んだ。
「それと、もうひとつ」
清軒は、静かに続けた。
「秦明凛。秦侯の娘。お前が消えた三日後に、景炎が青ざめた顔で俺の部屋へ来た。縁談の相手が、行方知れずになったと」
息が止まった。
「……知って、いたんですか」
「あの時に、初めて。町の少女が、侯爵家の令嬢だったと」
苦い笑みが、彼の口元に浮かんだ。
「景炎は、俺の友人だ。お前を探していると言うあいつの前で、俺も同じ人間を探していた。……最低だと思うか」
メイリンは、答えられなかった。
景炎の、血の気の引いた顔が、頭をよぎる。縁談を嫌って逃げた自分が、あの人に何をしたのか。胸の奥に、鈍い罪悪感が広がっていく。
「景炎様には、申し訳ないことをしました」
「あいつは、いい奴だ。だから、きちんと向き合うべきだ。……だが、今夜は、そのことは置く」
清軒は、少しだけ目を伏せた。
三
「なぜ、消えた」
静かな声だった。責める響きはなかった。ただ、深い疲れが滲んでいた。
メイリンは、しばらく口を閉ざした。父の密命を明かせば、父を危険に晒す。けれど、嘘を重ねる気力は、もう残っていなかった。
「縁談の裏に、私の魔力を欲しがっている者がいます」
清軒の目が、すっと細くなった。
「二年前から続く衰弱の件を、秦家は独自に調べていました。軍で増えているのが、おかしい。同じ時期に、私に縁談が来た。偶然とは思えなかった」
「秦侯の差し金か」
「……はい。家出に見せかけて、軍に潜り、内側から探れと」
「やはりか」
清軒は、ふっと息を吐いた。
「秦侯が、娘をむざむざ消すとは思わなかった。三か月前、お前が薬屋に通っていたのも、そのためだな」
「あなたも、でしたね」
メイリンが見返すと、彼は小さく頷いた。
「俺も、二年前から追っている。町で墨雲の名を使っていたのも、そのためだ。王太子の顔では、誰も本当のことを話さない」
二人は、顔を見合わせた。
三か月前、あの路地で出会ったのは、偶然ではなかったのかもしれない。同じ場所を、同じものを追う者同士が、引き寄せられるように出会ったのだと、ようやく悟る。
「わかっていることを、出し合おう」
清軒が、石の縁に腰を下ろした。
「発症は、満月の二日後に偏る。医務官が二人、記録から消えている。軍の衰弱者は、他の地域の数倍だ」
「医務棟で、魔力の流れを読みました」
メイリンは、慎重に言葉を選んだ。
「魔力が、体から抜き取られています。空洞に残る痕跡が、細い糸のように、ひとつの方角へ伸びていました。練兵場の外れ。古い月見台のある方へ」
「月見台」
清軒の目が、鋭く光った。
「月信仰の古い祭壇か。あそこは国師の祭祀の管轄だが、軍営の敷地内だ。将軍の縄張りでもある」
「どちらも、疑わしい」
「ああ。他にも疑わしい者はいる。国師、将軍、宰相。誰にでも、可能性がある」
国師、と言う時だけ、彼の声がわずかに沈んだ。
「国師は、母を亡くした俺を育ててくれた人だ。疑いたくはない。それでも、外せない」
その横顔に、メイリンは、思わず手を伸ばしかけた。慌てて、引っ込める。
四
「頼みがある」
清軒の声から、軽さが消えた。
「お前の力が要る。魔力の流れを見られるのは、黒髪の血筋の、それもお前ほどの者だけだ」
「はい」
「俺の側で、動いてくれ。護衛の隊長に、お前を指名する。表向きは、王太子の護衛。実際には」
「共犯、ですね」
メイリンは、ゆっくり顔を上げた。
「協力は、します。ただ、条件があります」
「聞こう」
「あなたの庇護の下には、入りません。縁談から逃げた私が、王太子の隣に立てば、あなたを巻き込みます。景炎様のことも、あります」
言いながら、胸が裂けるように痛んだ。
「そして」
声が、少し震えた。
「恋人には、戻りません。」
沈黙が、落ちた。
清軒は、目を閉じて、長く息を吐いた。それから、ふっと、あの不敵な笑みを浮かべた。
「わかった。今は共犯でいい」 「今は、って」 「諦めたわけじゃない。俺は、欲しいものは手に入れる主義でな」
月が雲から現れて、二人を照らした。
「改めて頼む、秦明。俺の共犯になってくれ」
メイリンは、少し迷って、小さく頷いた。
「……はい。殿下」
「清軒でいい」
「それは、できません」
「頑固者め」
その時だった。
井戸の向こうの、土塀の陰。魔力の気配が、かすかに揺れた。
(誰か、いる)
考えるより先に、指先を払っていた。
月光の鎖が、闇を裂いて走る。何かに絡みつき、引きずり出した。
「うわあっ!」
月明かりの下に転がり出たのは、濃紺の官服の青年だった。
「で、殿下! 私です、私です!」
「……墨雲」
清軒が、額を押さえた。
「何をしている」
「護衛でございます!」
鎖に縛られたまま、必死に訴える墨雲を見て、メイリンは、思わず吹き出しそうになった。
「申し訳ありません」
鎖を解くと、墨雲は服の埃を払いながら、深い溜め息をついた。
「お見事です。ですが、少しは手加減を」
「あの鎖で、手加減したのか」と、清軒が笑う。
「はい。弱めておきました」
メイリンの返事に、墨雲が絶句した。
「……恐ろしい方だ」
それを聞いて、清軒は声を上げて笑った。井戸端の闇に、久しぶりに、あの夜と同じ笑い声が響いた。
「おやすみ、秦明。明日からは、堂々と見張れる」
「見張る……?」
「明日から護衛の隊長に、指名しておいた」
絶句するメイリンを置いて、軽い足取りで夜道へ消えていく。その後ろを、墨雲が小走りに追った。
(本当に、この人は)
呆れながら、頬が緩んでいる自分に気づいて、慌てて表情を引き締めた。
五
同じ夜、大将軍の天幕。
「報告します。殿下が、東の井戸端で、秦明と二人きりで会っておられました」
副官の声に、鄭烈風は、酒瓢箪をゆっくり卓に置いた。
「王太子と、一兵卒がか」 「はい。近くには、玄墨雲も控えておりました」
指輪が、淡く光る。
「面白くなってきたな」
烈風は、低く笑った。




