二人の主
一
閲兵の翌朝、メイリンは大将軍の天幕に呼び出された。
「座れ、秦明」
鄭烈風は、酒瓢箪を卓に置いて、にやりと笑った。
「単刀直入に言おう。俺の側近にならんか。剣の腕も、度胸もある。このまま一兵卒で埋もれるには惜しい」
右手の指輪が、燭台の火を受けて鈍く光る。
「身に余る光栄です。ですが、自分は新兵で」
「謙遜はいらん。昨日の殿下の視線を見ただろう。お前に目をつけておられる。ならば先に、俺が貰っておく」
断れる空気ではなかった。側近になれば、軍の内部に深く入り込める。真相に近づく、またとない機会だ。けれど同時に、あの指輪の前に身を置き続けるという、危うい道でもある。
返事を迷ううち、天幕の外から声がかかった。
「失礼いたします。王太子殿下より、書状でございます」
入ってきたのは、濃紺の官服の青年、玄墨雲だった。目の下の隈が、昨日より濃い気がする。
「殿下は、今週の視察に、秦明という兵の護衛を望んでおられます」
「……ほう」
烈風の笑顔が、一瞬だけ固まった。
「殿下直々のご指名とあれば、断れんな」
墨雲は、書状を卓に置いて一礼した。去り際、ほんの一瞬だけメイリンに向けた視線には、深い同情が混じっていた。
こうして、メイリンは二人の主の間に挟まれることになった。
二
「王太子殿下の護衛!? すげえじゃねえか!」
大部屋に戻るなり、大牙が目を輝かせた。
「でも、なんで秦明なんだ。殿下ほどの方が、わざわざ一兵卒を」と、文遠が本から目を上げる。
「殿下に気に入られたのかな」と、小燕。
「油断するな」と、厚山。「目立つ者は、風当たりも強い」
メイリンは曖昧に笑うしかなかった。
(気に入られた、どころではない)
二日後、視察の朝。軍営の門前に、王太子の馬車が停まった。
「ご苦労、秦明」
馬車から降りた清軒は、初対面の相手に向ける、洗練された笑みを浮かべていた。
「殿下の護衛を務めます。秦明と申します」
「ああ、知っている。昨日、名を聞いたからな」
あくまで、初対面の態度だった。それが、かえって胸を刺す。
彼の隣を歩き、半歩後ろで周囲に目を配る。距離は近いのに、触れない。名を呼ばれても、目は合わない。二か月間、毎晩のように押し込めてきた感情が、体の奥でざわざわと身じろぎする。
(落ち着いて。私は護衛。ただの護衛)
「秦明」
「はい」
「襟が乱れている」
不意に、指先が首筋に伸びた。
固まった。喉元をかすめる指が、ごく軽く襟を整えていく。耳元で、低い声が囁いた。
「初対面にしては、ずいぶん緊張しているな」
息が止まる。
「……失礼しました」
「構わん。俺は、緊張している奴を見るのが好きだ」
悪びれもなく笑う横顔を、睨みつけたくなるのを、必死にこらえた。
(わかっている。この人は、気づいている)
けれど、彼は何も言わない。その沈黙が、いっそう恐ろしかった。
三
視察の最初の行き先は、軍の医務棟だった。
「殿下、このような場所に」
出迎えた老医務官が、慌てて膝をつく。
「最近、兵に熱病が出ているそうだな。見せてもらおう」
清軒の声は軽かったが、目は少しも笑っていなかった。
案内された奥の病室には、寝台が十ほど並んでいた。横たわる兵たちは、誰もが顔色を失い、虚ろな目で天井を見ている。
「熱はありません」と、老医務官が声を落とす。
「脈は弱く、食も細く、日ごとに衰えていくのです。薬も効かず、原因もわからず」
清軒は、枕元の記録板を手に取り、ゆっくりと頁をめくった。
「発症は、いつだ」
「ええと、月ごとに……」
「満月の二日後に、倒れる者が多いな」
医務官の肩が、ぴくりと跳ねた。
「記録を見る限り、半月ごとに波がある。偶然にしては、揃いすぎている。それと、先月から二人、医務官の名が記録から消えているが」
「そ、それは、故郷に帰りまして」
「そうか。名簿を、あとで届けさせろ」
穏やかな口調のまま、清軒は医務官の目を、じっと見据えた。老人の額に、汗が滲んでいく。
(二か月前の、あの人と同じ目)
笑って軽口を叩きながら、肝心なところで、決して逃さない。彼は、そういう人だった。
メイリンは、寝台のひとつに目を留めた。
若い兵だった。年は大牙と変わらないだろう。その短い髪の根元が、ひどく色褪せている。黒から灰へ、灰から白へ。
(髪の色が、抜けている)
心臓が、嫌な音を立てた。
そっと身を屈め、魔力の流れを読む。黒髪の血筋にだけ許された、秘めた力だ。
空だった。体の奥に、本来あるはずの魔力が、ごっそりと抜き取られている。そして、空洞に残る痕跡を辿ると、細い糸のような流れが、ひとつの方角へ伸びていた。
練兵場の外れ。古い月見台のある、あの方角へ。
(誰かが、ここから魔力を引いている)
声が漏れそうになって、唇を噛んだ。
「秦明」
背後から、静かな声がした。
振り向くと、清軒がこちらを見ていた。笑みは消えている。
「顔色が悪いな」
「……いえ、問題ありません」
「そうか」
彼は、メイリンの目を、じっと覗き込んだ。何かを確かめるような、深い色の瞳だった。
「医務官。この者たちの名簿と、発症の時期を、今日中に届けさせろ」
「は、はっ」
それだけ言って、彼は踵を返した。
四
視察が終わり、夕暮れの軍営に戻った。
「ご苦労だった」
馬車の前で、清軒は別れ際にそう告げた。周囲には、数人の兵と、玄墨雲が控えている。
「失礼いたします」
頭を下げて立ち去ろうとした時、通り過ぎざま、囁きが耳に落ちた。
「今夜、東の井戸端で待つ」
足が止まりそうになる。
「来なければ、こちらから行くぞ」
顔を上げた時には、彼はもう馬車に乗り込んでいた。
夕陽に染まる空の下、メイリンは立ち尽くした。袖の中で、赤い紐を握りしめる。翡翠の珠が、掌にひどく熱かった。
(行くべき? 行かざるべき?)
話せば、巻き込む。話さなければ、このまま二人の主の間で、身動きが取れなくなる。けれど、この人の隣にいれば、あの病室で見たものの意味に、ずっと早く辿り着ける。
夜が来る。そして、答えを出さなければならない。




