再会
一
入隊から二か月。その朝、練兵場には、いつもより長い整列の列ができていた。
この二か月で、大部屋の空き寝台は、ひとつ増えた。誰も口にしない。けれど、夜ごと、誰かの低い咳が闇に溶けていくことを、メイリンは知っている。
調べは、思うように進まなかった。医務棟には近づけず、兵の名簿も見られない。見えるのは、満月が近づくたびに、顔色を失っていく兵が増えるということだけだった。
(焦るな。確かめられるものから、ひとつずつ)
そう言い聞かせるたびに、心の隅で、別のことを考えている自分に気づく。石橋の下の灯籠、袖に包まれた手、「逃げるなよ」と笑った声。
(考えない)
袖の中の赤い紐に触れる癖だけが、どうしても抜けなかった。
「今日は王太子殿下の閲兵だってよ」
隣で大牙が、背筋を伸ばしたまま小声で言った。
「噂じゃ、女好きの遊び人らしいぜ」
「切れ者でもあるらしい」と、文遠。
「美男子だって聞いたよ」と、小燕。
「どっちでもいい。粗相をするな」と、厚山が低く締めた。
メイリンは前を向いたまま、聞き流した。王宮の人間など、遠い世界の話だ。目立たず、やり過ごすだけでいい。
軍靴の音に混じって、聞き覚えのある笑い声がした。
「へえ、ずいぶん活きのいいのが揃ってるじゃないか」
心臓が、止まった。
二
顔を上げなくても、わかる。
金糸の礼服に身を包み、気怠げに歩いてくるその人は、あの夜、石橋の下で「好きだ」と言った人だった。
(うそ)
「王太子、柳清軒様のお成り!」
高らかな声が、練兵場に響く。
「従者、玄墨雲様、お供いたします」
濃紺の官服をきっちり着こなした、目の下に隈のある青年が、深々と頭を下げた。
柳清軒。そして、墨雲。
あの夜、彼が名乗った名だった。
そのとき、彼が首を傾けた拍子に、左耳で何かが光った。
翡翠の耳飾り。袖の中の珠と、同じ石。
(家に古くから伝わる品)
あの言葉は、嘘ではなかったのだ。ただ、その家が、燦月国の王家だっただけで。
足元が、ぐらりと揺れた。必死で膝に力を込める。気配を消す術が、乱れかけていた。息を止めるように、魔力を、心の奥底へ押し戻す。
(落ち着け。顔に出すな。私は、ただの新兵)
何度言い聞かせても、胸の鼓動は静まらなかった。
三
閲兵は、粛々と進んだ。
清軒は、列の前をゆっくりと歩いた。軽薄な笑みを貼りつけたまま、兵をひとりずつ眺めていく。時折、将軍の烈風に、何気ない調子で声をかけた。
「最近、兵の具合はどうだ。熱病が流行っていると聞いたが」
「ご心配には及びません。ほんの数人でございます」
「数人、か。数は、きちんと取っているのだろうな」
「もちろんでございます」
豪快に答える烈風の目が、ほんのわずか、笑っていなかった。
「では、新兵の演武を」
烈風の号令で、数人が前に出た。その中に、メイリンの名があった。
木剣を構える。心を、鎮める。これまで、父に叩き込まれた型を、体が覚えている。踏み込み、受け、流し、返す。魔力は、一滴も使わない。ただ、積み上げた技だけで、風を切った。
最後の一撃で、相手の木剣が、手から離れて宙を舞った。振り抜いた拍子に、袖口がわずかに捲れた。赤い紐が覗いたことに、メイリンは遅れて気づいた。
静寂のあと、歓声が上がった。
「見事だ」
清軒が、拍手を送った。その声が、ほんの少し、震えた気がした。
列の前を進んだ彼が、メイリンの前で足を止めた。
短くなった髪。さらしで潰した胸。低くした声。完璧なはずだ。
「お前、名は」
「……秦明、です」
「歳は」
「十七」
「出身は」
「南の農家です」
彼は、ふっと目を細めた。口元は笑っているのに、その目だけが、あの夜の川辺と同じ色をしていた。
「手首に、何か巻いているな。怪我でもしたのか」
袖口に、視線が落ちる。メイリンの全身が、強張った。
「古傷です」
「そうか」
それだけ言って、彼は一瞬、何かを飲み込むように唇を結んだ。
「いい名だ。覚えておこう」
背を向けて去っていく。その後ろ姿が、ほんの少しだけ、歩調を乱した気がした。
(気づかれて……ない、よね)
メイリンは冷や汗を流しながら、胸を押さえた。
四
そこへ、別の足音が近づいた。
「殿下、お待ちを」
鄭烈風だった。豪快な笑顔のまま、清軒の隣に並ぶ。
「新兵の中に、面白い奴がおります。秦明という、剣の筋がいい男です。私の側に置きたいと思っておりまして」
清軒は、笑顔を崩さなかった。
「ほう。それは偶然だな」
その視線が、烈風の右手の指輪をかすめて、すぐに離れた。
「俺もちょうど、目をつけたところだ」
五
王宮への帰途、馬車の中。
窓の外を見たまま、清軒は口を開かなかった。向かいの墨雲が、書類を抱えたまま、気まずそうに咳払いをする。
「殿下。先ほどの新兵ですが」
「墨雲」
低い声だった。昼間の軽薄さは、どこにもない。
「あの新兵の、この二か月を洗え。入隊の経緯、親しい者、接触した相手。それと、鄭烈風がなぜ秦明を欲しがるのかもだ」
「殿下、まさか、あの新兵は」
「見ればわかる」
清軒は、ゆっくり拳を握りしめた。爪が、掌に食い込む。
「髪が短くなったくらいで、俺の目をごまかせると思ったのか」
声が、ほんの少し和らいだ。
「それに、手首に赤い紐を巻いていた。」
墨雲は、何も言えなかった。
「あいつが誰かは、もう確かめた。知りたいのは、あいつの周りで誰が動いているかだ」
そう言い切った横顔が、ふいに歪んだ。
口の端が上がりかけて、すぐに引きつる。安堵と、怒りと、胸を締めつける苦しさが、ひとつの表情の中で混ざり合って、どれにもなりきれない。握りしめた拳が、小さく震えていた。
「……見つけた」
絞り出すような声だった。
「二か月だ。町中を探して、秦家を訪ねて、あの男には門前払いを食って、それでも、見つからなかった。無事でいてくれと、毎晩、祈るように思っていた」
そこで、言葉を切る。
「それがどうだ。あいつは、軍の列の中で、剣を振っていた。俺の目の前で、俺を知らない顔をして」
窓の外の灯りを眺めながら、彼は低く笑う。
「勝手に別れを決めて、勝手に消えて」
「殿下」
「だが、無事だった。それだけで、十分だ」
次の瞬間、清軒の口元に、あの不敵な笑みが戻った。
「なら話は早い。逃げられると思うなよ、メイリン」
墨雲は、深い溜め息をついた。
「それは結構ですが、私の名前を勝手に使った件、まだ許していませんからね」
「あとで酒でも奢る」
「結構です」




