宴の夜
一
入隊から十日が過ぎた夜、練兵場に篝火が並んだ。
新兵歓迎の宴である。酒樽が運び込まれ、焼いた肉の匂いが夜気に混じる。
「いいか秦明、酒は男の礼儀だ!」
大牙が、杯を二つ握りしめて仁王立ちしていた。
「飲めねえ奴は男じゃねえ!」
「飲めないとは言っていません」
「じゃあ飲め!」
(飲めない、とは言えない)
貴族の娘として、祝いの席で果実酒を舐める程度の経験はあった。けれど、限界も知っている。杯ひとつで、頬が熱くなるのだ。
「雷、押しつけるな」と、文遠が本から目を上げた。
「一杯だけ付き合えばいい。それで義理は果たせる」
「一杯で済むか!」
「済ませろ」
結局、メイリンは一杯を受け取った。
甘い香りが、鼻をくすぐる。三か月前、彼と分け合った花茶の湯気が、ふと胸をよぎった。慌てて、杯を傾けて振り払う。
二
一杯が、二杯になった。
「新入りども、飲んでるか!」
地鳴りのような声が響き、篝火の向こうから鄭烈風が現れた。兵たちが一斉に姿勢を正す。大将軍は杯を片手に、新兵ひとりひとりの名を呼び、肩を叩いて回っていく。
「秦明! お前だな、今年の剣の筋がいいのは」
名前を覚えられている。メイリンは杯を持つ手に力を込めた。
「恐れ入ります」
「堅いな! 飲め飲め!」
三杯目。烈風の杯と打ち合わせた瞬間、彼の右手の指輪が、淡く光った。
(まずい)
体の奥で抑え込んでいた魔力が、杯の縁で震える。酔いが、箍を緩めている。庶民の兵に、魔力があってはならない。気配を消す術は、息を止めるように精神を張りつめ続けなければ保てない。
月長石の指輪が、それに応えるように、鈍く脈打った。
「ほう」
烈風が目を細めた、その時。横から大きな手が、すっと杯を取り上げた。
「将軍、こいつは下戸でして。自分が介抱します」
厚山だった。
「そうか! 残念だ。次は強くなって来い!」
豪快に笑って去る背中を見送り、厚山は低く囁いた。
「顔色が悪い。外に出ろ」
何も聞かない。それが、ありがたかった。
夜風の下で、メイリンは膝に手をついて、荒い息を整えた。魔力の抑えが、ようやく戻ってくる。
(危なかった。あと一杯、あの指輪の前にいたら)
あの指輪は、何かを見ている。そんな気がしてならなかった。
三
同じ頃、望月京の王宮。
白い回廊の奥の一室で、三人の男が向き合っていた。
「こちらが、王弟殿下の別邸の庭先で見つかった、秦侯の息女の髪にございます」
白い布の上に、黒い髪の束が置かれていた。それを差し出したのは、純白の法衣の老人だった。腰まで届く白髪を背に流し、後頭部の内側にだけ、黒がわずかに残っている。淡い灰色の瞳は、いつも穏やかに微笑んでいた。
国師、李白蓮。
「やはり、王弟派が連れ去ったか」
痩せた体に狐のような目をした宰相、陸文昌が、苦々しげに言った。
「髪の波長は、新月の夜、あの別邸の近くで途絶えております」
「奴らめ。秦侯の娘の魔力を狙ったな」
そのとき、末席に座っていた青年が、立ち上がった。
「連れ去られた、と」
宰相の息子、陸景炎。二十三歳。整った顔立ちに、育ちの良さがにじむ。その顔から、血の気が引いていた。
「彼女は、無事なのですか」
「景炎、落ち着け」
「父上。私は、彼女が自分の意志で消えたとは、思いたくない。思いたくはないが」
声が震えていた。
「もし連れ去られたのなら、私が必ず取り戻します」
その必死さに、宰相は目を逸らした。国師は、静かに微笑んだまま、白い手袋の指で、髪の束の切り口をそっとなぞった。
「……見事な切り口ですな」
誰にも聞こえないほどの声で、そう呟いた。
「国師?」
「いいえ。王弟殿下の周辺を、洗わせましょう」
穏やかな声は、少しも揺れなかった。
四
消灯後の大部屋に、寝息が重なっていた。
宴の残り香を引きずった体が、鉛のように重い。夜風で醒めたはずの酔いが、横になった途端、ゆっくりと戻ってきた。
メイリンの唇が、かすかに動いた。
「……ばか……」
「ん? 今、何か言ったか?」と、起きていた大牙が首を傾げる。
「……軽薄……手慣れてる……」
「秦明?」
「……墨雲……」
部屋が、しんと静まった。
「ぼくうん?」と、大牙が目をしばたたく。
「誰だそれ」
「人の名だろう」と、文遠。
「好きな人かな」と、小燕が目を輝かせた。
「放っておけ」と、厚山。
「……ごめん……明日、行けない……」
かすれた声に、四人は顔を見合わせた。それ以上、誰も何も言わなかった。
翌朝。頭の芯が、鈍く痛んだ。
「秦明! 昨夜のあれ、覚えてるか!」
大牙が目を輝かせて飛び込んできた。
「何のことですか」
「寝言だよ! 『墨雲』って! 誰だよ! 白状しろ!」
血の気が引いた。
「……い、犬です」
「犬?」
「昔、飼っていた犬の名前です。墨のように黒くて、雲のように毛がふわふわで」
苦し紛れの嘘に、大牙の顔が、しゅんとなる。
「そうか……死んだのか」
「ええ、まあ」
「それで『明日、行けない』って……毎日、散歩してたんだな」
「……はい」
大牙は目を潤ませ、メイリンの肩をがっしり掴んだ。
「辛かったな。犬は大事な家族だもんな」
罪悪感が胸を刺す。部屋の隅で、文遠は本で口元を隠し、小燕は肩を震わせ、厚山は天井を見つめていた。
「大牙さん」と、小燕が息を整えて言う。
「そっとしておいてあげよう。犬の話は、辛いから」
「そうだな……! よし、みんなに、秦明に優しくしろって言ってくる!」
止める間もなく、大牙は部屋を飛び出していった。
「そっとしておく、の意味を知らないのか、あいつは」と、文遠が額を押さえる。
(ごめんなさい、墨雲。ごめんなさい、犬の墨雲)
胸の奥で、本物の彼の笑顔が、少しだけ痛んだ。
五
同じ頃、大将軍の天幕。
「新兵の秦明の件ですが」と、副官が声を落とした。「今朝から、兵舎の噂になっております。亡くした愛犬の名を、寝言で呼んだとか。同室の雷大牙が、涙ながらに触れ回っておりまして」
鄭烈風は、酒瓢箪を傾ける手を止めた。
「犬の名は」 「墨雲、と」 「墨雲」
低く繰り返す。
「王太子殿下の筆頭側近と、同じ名だな」
右手の指輪が、淡く光った。烈風は口の端を、ゆっくりと吊り上げる。
「面白い。調べておけ」




