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黒い髪  作者: 八重


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3/32

宴の夜

一

入隊から十日が過ぎた夜、練兵場に篝火が並んだ。

新兵歓迎の宴である。酒樽が運び込まれ、焼いた肉の匂いが夜気に混じる。

「いいか秦明、酒は男の礼儀だ!」

大牙が、杯を二つ握りしめて仁王立ちしていた。

「飲めねえ奴は男じゃねえ!」

「飲めないとは言っていません」

「じゃあ飲め!」

(飲めない、とは言えない)

貴族の娘として、祝いの席で果実酒を舐める程度の経験はあった。けれど、限界も知っている。杯ひとつで、頬が熱くなるのだ。

「雷、押しつけるな」と、文遠が本から目を上げた。

「一杯だけ付き合えばいい。それで義理は果たせる」

「一杯で済むか!」

「済ませろ」

結局、メイリンは一杯を受け取った。

甘い香りが、鼻をくすぐる。三か月前、彼と分け合った花茶の湯気が、ふと胸をよぎった。慌てて、杯を傾けて振り払う。

二

一杯が、二杯になった。

「新入りども、飲んでるか!」

地鳴りのような声が響き、篝火の向こうから鄭烈風が現れた。兵たちが一斉に姿勢を正す。大将軍は杯を片手に、新兵ひとりひとりの名を呼び、肩を叩いて回っていく。

「秦明! お前だな、今年の剣の筋がいいのは」

名前を覚えられている。メイリンは杯を持つ手に力を込めた。

「恐れ入ります」

「堅いな! 飲め飲め!」

三杯目。烈風の杯と打ち合わせた瞬間、彼の右手の指輪が、淡く光った。

(まずい)

体の奥で抑え込んでいた魔力が、杯の縁で震える。酔いが、箍を緩めている。庶民の兵に、魔力があってはならない。気配を消す術は、息を止めるように精神を張りつめ続けなければ保てない。

月長石の指輪が、それに応えるように、鈍く脈打った。

「ほう」

烈風が目を細めた、その時。横から大きな手が、すっと杯を取り上げた。

「将軍、こいつは下戸でして。自分が介抱します」

厚山だった。

「そうか! 残念だ。次は強くなって来い!」

豪快に笑って去る背中を見送り、厚山は低く囁いた。

「顔色が悪い。外に出ろ」

何も聞かない。それが、ありがたかった。

夜風の下で、メイリンは膝に手をついて、荒い息を整えた。魔力の抑えが、ようやく戻ってくる。

(危なかった。あと一杯、あの指輪の前にいたら)

あの指輪は、何かを見ている。そんな気がしてならなかった。

三

同じ頃、望月京の王宮。

白い回廊の奥の一室で、三人の男が向き合っていた。

「こちらが、王弟殿下の別邸の庭先で見つかった、秦侯の息女の髪にございます」

白い布の上に、黒い髪の束が置かれていた。それを差し出したのは、純白の法衣の老人だった。腰まで届く白髪を背に流し、後頭部の内側にだけ、黒がわずかに残っている。淡い灰色の瞳は、いつも穏やかに微笑んでいた。

国師、李白蓮。

「やはり、王弟派が連れ去ったか」

痩せた体に狐のような目をした宰相、陸文昌が、苦々しげに言った。

「髪の波長は、新月の夜、あの別邸の近くで途絶えております」

「奴らめ。秦侯の娘の魔力を狙ったな」

そのとき、末席に座っていた青年が、立ち上がった。

「連れ去られた、と」

宰相の息子、陸景炎。二十三歳。整った顔立ちに、育ちの良さがにじむ。その顔から、血の気が引いていた。

「彼女は、無事なのですか」

「景炎、落ち着け」

「父上。私は、彼女が自分の意志で消えたとは、思いたくない。思いたくはないが」

声が震えていた。

「もし連れ去られたのなら、私が必ず取り戻します」

その必死さに、宰相は目を逸らした。国師は、静かに微笑んだまま、白い手袋の指で、髪の束の切り口をそっとなぞった。

「……見事な切り口ですな」

誰にも聞こえないほどの声で、そう呟いた。

「国師?」

「いいえ。王弟殿下の周辺を、洗わせましょう」

穏やかな声は、少しも揺れなかった。

四

消灯後の大部屋に、寝息が重なっていた。

宴の残り香を引きずった体が、鉛のように重い。夜風で醒めたはずの酔いが、横になった途端、ゆっくりと戻ってきた。

メイリンの唇が、かすかに動いた。

「……ばか……」

「ん? 今、何か言ったか?」と、起きていた大牙が首を傾げる。

「……軽薄……手慣れてる……」

「秦明?」

「……墨雲……」

部屋が、しんと静まった。

「ぼくうん?」と、大牙が目をしばたたく。

「誰だそれ」

「人の名だろう」と、文遠。

「好きな人かな」と、小燕が目を輝かせた。

「放っておけ」と、厚山。

「……ごめん……明日、行けない……」

かすれた声に、四人は顔を見合わせた。それ以上、誰も何も言わなかった。

翌朝。頭の芯が、鈍く痛んだ。

「秦明! 昨夜のあれ、覚えてるか!」

大牙が目を輝かせて飛び込んできた。

「何のことですか」

「寝言だよ! 『墨雲』って! 誰だよ! 白状しろ!」

血の気が引いた。

「……い、犬です」

「犬?」

「昔、飼っていた犬の名前です。墨のように黒くて、雲のように毛がふわふわで」

苦し紛れの嘘に、大牙の顔が、しゅんとなる。

「そうか……死んだのか」

「ええ、まあ」

「それで『明日、行けない』って……毎日、散歩してたんだな」

「……はい」

大牙は目を潤ませ、メイリンの肩をがっしり掴んだ。

「辛かったな。犬は大事な家族だもんな」

罪悪感が胸を刺す。部屋の隅で、文遠は本で口元を隠し、小燕は肩を震わせ、厚山は天井を見つめていた。

「大牙さん」と、小燕が息を整えて言う。

「そっとしておいてあげよう。犬の話は、辛いから」

「そうだな……! よし、みんなに、秦明に優しくしろって言ってくる!」

止める間もなく、大牙は部屋を飛び出していった。

「そっとしておく、の意味を知らないのか、あいつは」と、文遠が額を押さえる。

(ごめんなさい、墨雲。ごめんなさい、犬の墨雲)

胸の奥で、本物の彼の笑顔が、少しだけ痛んだ。

五

同じ頃、大将軍の天幕。

「新兵の秦明の件ですが」と、副官が声を落とした。「今朝から、兵舎の噂になっております。亡くした愛犬の名を、寝言で呼んだとか。同室の雷大牙が、涙ながらに触れ回っておりまして」

鄭烈風は、酒瓢箪を傾ける手を止めた。

「犬の名は」 「墨雲、と」 「墨雲」

低く繰り返す。

「王太子殿下の筆頭側近と、同じ名だな」

右手の指輪が、淡く光った。烈風は口の端を、ゆっくりと吊り上げる。

「面白い。調べておけ」

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