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黒い髪  作者: 八重


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探す者、隠れる者

一

目が覚めて、最初に思ったのは「寒い」だった。

隣へ伸ばした手が、空を掴んだ。

「……メイリン?」

寝台は、すっかり冷え切っていた。

最初は、笑った。照れて先に起きたのだろう。舟を出す約束だ。あいつのことだ、先に舟着場で待っているかもしれない。

「お連れさんなら、夜明け前に、お一人で出ていかれましたよ」

宿の主人の言葉で、笑いが消えた。

舟着場に、彼女はいなかった。夜市にも、茶楼にも、石橋の下にも。長屋の筋を駆け、彼女が通っていた薬屋を訪ね、衰弱した職人の家の戸を叩いた。誰も、行き先を知らなかった。

昼過ぎ、息を切らせた玄墨雲が、人混みをかき分けて追いついてきた。

「殿下! 王宮を丸一日空けて、町で何をなさっているのですか」

「人を探している」

「人?」

「メイリンだ」

墨雲が、目を丸くした。

「姓は」

「知らない」

「住まいは」

「知らない」

「ご実家は」

「知らない」

口にしてから、気づいた。三か月、毎日のように顔を合わせて、笑って、手を繋いで、好きだと言った。それなのに、彼女の姓も、家も、何ひとつ知らない。

(聞かなかったのは、俺だ)

聞けば、壊れる気がしたのだ。この心地よい嘘ごと、彼女が消えてしまう気がした。その臆病さが、今になって胸に突き刺さる。

「……人相書きを作る。衛兵は使うな。目立たず、静かに探せ」

「特徴は」

「黒髪、腰まで。歳は十七前後。右手に剣だこ。人の目を見る時、先に右の肩が動く。笑う時は、一拍遅れて目が笑う」

「殿下」

「剣を構える前に、一度だけ瞬きをする。それから」 「殿下。それは人相書きではなく、ただの惚気です」

墨雲の溜め息は、深かった。

清軒は、ふっと自嘲した。笑ったはずなのに、喉が震えていた。

二

三日後。王宮の執務室に、思わぬ客が来た。

「清軒、頼みがある」

陸景炎。宰相の息子で、幼い頃から共に学んだ友だった。育ちの良さがにじむ穏やかな顔が、今は血の気を失っている。

「どうした。お前がそんな顔をするとは」

「秦侯の娘が、三日前から戻らない」

清軒は、書き物の手を止めなかった。

「私の、縁談の相手だ。……明凛殿という」

筆が、止まった。

墨が、紙の上に黒い染みを広げていく。

「どうした」

「いや。続けろ」

声は、平静だった。平静を保つことだけが、今の清軒にできることだった。

(明凛)

メイリン。

町の少女は、侯爵家の令嬢だった。剣だこも、あの夜に袖口から走った光の鎖も、ようやく意味がつながる。町娘の衣の下で、彼女はずっと、貴族の顔を隠していたのだ。

そして、その縁談の相手が、目の前の友だった。

「……私との縁談が、そんなに嫌だったのだろうか」

景炎は、力なく笑った。

「彼女は、自分の意志で出ていったのかもしれない。それでも、無事かどうかだけは、知りたいんだ」

「お前は、彼女に会ったことがあるのか」

「一度だけ。ほんの少し、言葉を交わしただけだ」

それだけで、この男は、ここまで青くなる。

胸の奥が、きしりと鳴った。親友の想い人を、自分もまた、探している。そのことを、この男に告げる資格が、自分にあるのか。

「わかった。俺も手を貸す」

そう言うのが、精一杯だった。

景炎が去ったあと、清軒は、手の中で潰れた筆を、静かに机に置いた。

(今夜はひとりになりたくない)

あの夜、彼女はそう言った。あれは、別れの言葉だったのだ。

三

五日後、メイリンは軍営の門の前に立っていた。

門柱には、月を抱く黒い軍旗が垂れている。さらしで押さえた胸が、少し息苦しい。短い髪は無造作にまとめ、袖の中には、赤い紐を隠してあった。

「名は」

「秦明」

「姓は」

「ありません。庶民ですから」

嘘は、驚くほど滑らかに出た。姓を持つのは貴族だけ。名だけを名乗れば、誰も秦家とは結びつけない。

「歳は」

「十七」

「……細いな。実家は」

「南の農家です。口減らしに出されました」

受付の兵が、メイリンの手をじっと見た。

「農家の手じゃないな」

「鍬より、棒を振るほうが好きでした」

兵は少し笑って、名簿に「秦明」と書きつけた。

入隊の試験は、木剣での模擬戦だった。相手は、背の高い古参兵。

「ガキの遊びじゃねえぞ。泣くなよ」

次の瞬間、その巨体は地面に転がっていた。誰も、動きを見ていなかった。

練兵場を見下ろす高台に、大柄な男が座っていた。肩に赤い房を垂らした黒鋼の鎧。酒瓢箪を傾けながら、鳶色の目だけが、こちらを射抜いている。大将軍、鄭烈風だと、周囲の兵が囁いた。

「いい剣だ! 今年の新兵は骨がある」

豪快な笑い声と共に、彼の指輪が淡く光った気がした。メイリンは、目を伏せて気配を殺した。

その時だった。

練兵場の隅で、積み上げられていた丸太の山が、ぎしりと軋んだ。縄が切れる。

「危ない!」

下にいたのは、栗色のふわふわした髪の小柄な少年だった。丸太が、雪崩のように落ちてくる。

足が、勝手に動いていた。

袖口から、月影の盾を滑らせる。受け止めはしない。角度だけを、指先でほんの少し傾ける。丸太は盾の表面を滑り、少年の頭上を逸れて、地面に轟音を立てて転がった。

土煙が舞い上がる。

(髪を切って、盾が薄いのにうまくいってよかった)

薄いなら、力で受けずに、いなせばいい。幼い頃から父に叩き込まれた技だった。

「だ、大丈夫か!」

兵たちが駆け寄る中、少年はぽかんと、メイリンを見上げた。

「今、何か、光ったような」

「気のせいです」

「でも、確かに」

「気のせいです」

その言葉が、あの夜の彼とのやり取りに重なって、胸が小さく痛んだ。少年は何か言いかけたが、やがて、にっこり笑った。

「ありがとう。僕、白小燕。あなたは?」

「……秦明」

「よろしくね、秦明」

何も追及しないその笑顔に、メイリンは、ほんの少しだけ救われた。

四

割り当てられた大部屋には、寝台が六つ並んでいた。

「新入り! 俺は雷大牙だ。今日からお前の兄貴分だ!」

入るなり、赤みがかった短髪の青年が、勢いよく肩を叩いてきた。日焼けした肌に鉢巻き、声が部屋じゅうに響く。

「……秦明です」

「細いなあ! ちゃんと食ってたか? 俺の肉、半分やる!」

勢いのまま皿を押しつけられて、メイリンは目を白黒させた。

窓際で本を読んでいた長身の青年が、顔も上げずに言う。

「雷、新入りが困っている。静かにしろ」

「俺は歓迎してるだけだ!」

「歓迎の声量じゃない」

蒼文遠と名乗ったその青年は、切れ長の目をちらりとこちらに向けた。観察されている、と感じて、メイリンは背筋を正した。

「俺は巌厚山だ。ここの古参でな。わからんことがあれば何でも聞け」

熊のような巨体が戸口を塞ぎ、細い目をさらに細めて笑う。それだけで、不思議と肩の力が抜けた。

「あ、秦明! 同じ部屋だったんだ!」

聞き覚えのある声に振り向くと、昼間、丸太から助けた栗色の髪の少年が、戸口から顔を出して手を振っていた。

「改めて、白小燕! 今度は、お礼にお茶をいれるよ」 「丸太?」と、大牙が首を傾げる。「何の話だ」 「秦明に助けてもらったんだ。ぎりぎりで逸れたのは、運がよかったんだよ」

運がよかった、と言い切る小燕の目が、ほんの一瞬だけ、メイリンの袖口を見た気がした。けれど、すぐに屈託のない笑顔に戻る。

騒がしい部屋だった。メイリンはその輪の端で、ぎこちなく口の端を上げる。

(……この人たちを、騙している)

胸の奥が、小さく痛んだ。


その夜、消灯後の大部屋に、寝息が重なっていた。右隣の寝台が、空いている。

「そこは誰の?」と小声で尋ねると、暗がりから厚山の低い声が返った。

「先週までいた奴だ。急に熱が出て、医務棟に運ばれた」 「治ったんですか」

答えは、少しだけ遅れた。

「……戻ってきた奴は、まだいない」

背筋が、すっと冷えた。

(髪の根元から、色が抜ける衰弱。ここにも)

メイリンは、袖の中の赤い紐を、そっと握った。翡翠の珠が、掌の温みを吸って、ほのかに温かい。

五

同じ夜、王宮の執務室。

「殿下、報告です」

墨雲が、積み上げた書類の束を卓に置いた。

「衰弱者の分布を洗いました。地方と下町にも散発していますが、数が突出しているのは、軍です。それも、満月の前後に増えています」

「満月か」

「医務記録は、すべて『熱病』で処理されています。ですが、診た医務官のうち二人が、先月から行方不明です」

清軒は、書類の頁を静かにめくった。

「もうひとつ。秦家です」

「何だ」

「二年前から、秦家の使用人が、下町の長屋や薬屋で衰弱者の聞き取りをしていた記録が、うちの密偵の報告にありました。令嬢本人も、町娘に扮して通っていたようです」

清軒の手が、止まった。

つながっていく。町で出会ったあの日、彼女がいた長屋は、衰弱者の家だった。あいつは、最初から、同じものを追っていたのだ。

「縁談の使者は、令嬢の魔力の強さを執拗に訊いたそうです」

「……そうか」

低く呟いて、清軒は顔を上げた。

「あいつは、逃げたんじゃない」

「殿下?」

「動いているんだ。俺と同じものを追って、俺より深いところへ」

窓の外の闇を、見つめた。

「秦侯は、娘をむざむざ消すような男ではない。何か、算段があるはずだ。そして、衰弱者が偏っているのは、軍だ」

「まさか、令嬢が軍に」

「あいつなら、やる」

言い切って、小さく笑った。喉の奥に、鈍い痛みが残る。

「閲兵を組め。王太子の巡閲だ。手続きに二か月はかかるだろうが、構わん」

「令嬢の捜索ですか、衰弱の調査ですか」

「どちらもだ」

清軒は、左耳の翡翠に、指先でそっと触れた。彼女の元にあるはずの珠と、対になる石だ。灯りを受けて、静かに光る。

「待っていろ、メイリン。必ず、見つける」

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