月のない夜に
第一話 月のない夜に
一
窓の外が、うっすらと白み始めていた。
メイリンは、眠る彼の隣で、一晩じゅう目を閉じなかった。
墨雲の寝息は静かで、規則正しい。繋いだ手は、眠りの底でも離れなかった。大きくて、少し硬い指。剣だこのある自分の手とは違う、書を読み、筆を握ることに慣れた手だ。
(この温度を、覚えておこう)
そう思って、すぐに首を振る。覚えていてどうなる。思い出すたびに、胸が痛むだけだ。
指を一本ずつ、ゆっくりほどいた。
人差し指。中指。薬指。最後に小指をほどく時、眠っているはずの彼の指が、無意識に追いかけるように動いた。
息が止まる。
けれど、彼は目を覚まさなかった。空を掴んだ手が、寝台の上に力なく落ちる。
(ごめんなさい)
枕元に文を残そうとして、やめた。書けば、きっと戻れなくなる。手首に巻いた赤い紐を、一度だけ握りしめる。
唇だけで、告げた。
――さよなら。
声にしたら、崩れてしまうから。戸を閉める音を殺して、メイリンは夜明け前の廊下へ出た。
二
三か月前の、よく晴れた午後のことだった。
あの頃のメイリンは、侯爵家の令嬢の顔を捨て、町娘の衣を着て、下町を歩き回っていた。
秦家は二年前から、ある異変を調べている。熱もないまま衰弱し、髪の根元から色が抜け、魔力が空になっていく人々。公には、ただの熱病とされていた。
その日も、衰弱した職人の家を訪ねた帰りだった。
「お嬢ちゃん、ひとりかい」
路地の出口で、酒臭い男が三人、行く手を塞いだ。
「お引き取りください」
「つれねえなあ」
伸びてきた腕を掴んで、勢いのまま投げ飛ばした。二人目も、同じ。
「待て待て待て! 助太刀するぞ!」
そこへ、誰かが路地へ駆け込んできた。着崩した質素な衣に、緩く結んだ黒髪の青年。転がる男二人を見て、足が止まる。
「……俺の出番は」
「ありません」
「ないのか」
見るからに肩を落とす青年に、うっかり笑いそうになった。その時、三人目の男が懐から短刀を抜き、青年の背後に迫った。
考えるより先に、指先を払っていた。
袖口から、細い光の鎖が走る。男の足首を絡め取り、石畳に転がした。短刀が乾いた音を立てる。光は、一瞬で消えた。
庶民が魔法を使えば、罰を受ける。それでも、体が動いていた。
青年が、ゆっくり振り返る。
「……今、何か光らなかったか」
「気のせいです」
「いや、確かに」
「気のせいです」
彼はじっと、メイリンの袖口を見た。それから、ふっと笑った。
「そういうことにしておこう」
あの時の彼は、きっと気づいていた。町娘が、魔法を使ったことに。それでも一度も、問いたださなかった。
それから三か月。衰弱者の出た長屋で、薬屋の前で、気づけば彼は隣にいた。墨雲と名乗った青年は、「物書きの家の次男坊だ」と笑い、同じ衰弱の件を、彼なりに追っているようだった。
軽口ばかりの人だった。けれど、肝心なことは、決して聞かない人だった。
三
昨日の昼、メイリンは父の奥の間にいた。
「宰相家の若君との縁談は、断れん。婚礼は半年後の満月だ」
秦剛毅は、腕を組んだまま低く言った。武人らしい、岩のような体躯。魔法も剣も、国で五指に入る男である。
「だが、おかしいと思わんか。宰相の使者は、ひと月で三度来た。娘の名も、年も、魔力の強さまで、事細かに訊いていった」
「……私の魔力を、欲しがっている者がいる」
「そうだ。二年前から続く、あの衰弱。軍で特に増えている。時期が重なりすぎている」
沈黙のあと、父は静かに言った。
「消えろ」
耳を疑った。
「縁談が嫌で、家出した娘ということにする。誰も疑わん。お前は男装して軍に潜り、内側から探れ」
「お父様」
「髪は、魔力の波長を残す。国師の探知術に追われる。……切る覚悟はあるか」
少しも迷わなかった。
「自分で切ります」
「そうか」
父は、ふっと目元を和らげた。
「決めたことは、やり通す。お前は昔からそうだ。判断は任せる。出立は、新月の夜明けだ。それまでは、好きにしろ」
好きにしろ。その言葉の意味を、メイリンは、夕暮れの橋の袂に立って、ようやく理解した。
「遅い。待ちくたびれて、欄干と話し始めるところだった」
墨雲が、欄干にもたれて笑っていた。
「ごめんなさい。少し、手間取って」
「顔色が悪い」
「そう?」
「ああ。化粧で隠すにはもったいない顔だ」
目を逸らすと、彼は小さく笑って、それ以上は何も聞かなかった。
灯籠が連なる夜市を、二人は並んで歩いた。人波に押されて肩が触れ合うと、彼は何も言わずにメイリンの手を取り、自分の外衣の袖の内に包んだ。
「冷たい」
「夜風のせいよ」
「そうか。なら、温めておく」
手の甲を親指でそっと撫でられて、鼓動が速くなった。
灯籠の列が途切れる、静かな路地の角で、彼がふと足を止めた。
「渡したいものがある」
懐から取り出されたのは、赤い髪紐だった。端に、小さな翡翠の珠が通してある。使い込まれた艶があり、店先に並ぶ品とは明らかに違った。
「こんな上等なもの」
「ただの飾りだ。家に古くから伝わる品でな。しまい込んでいても仕方がない」
珠の内側に、ごく細い刻みが見えた気がした。けれど灯りが揺れて、確かめられなかった。
彼は髪紐を手に取り、メイリンの長い黒髪をひと房すくい上げた。慣れた手つきで、赤い紐を結ぶ。耳元に、息がかかるほどの距離だった。
「やっぱり似合う。黒に赤は、目を引く」
「……手慣れてる」
「妬いたか?」
「違う」
「残念」
軽口の下で、結び目を整える指先だけが、やけに丁寧だった。
この髪に結ぶ日は、きっと今日が最後になる。その重みを、メイリンはそっと確かめた。
石橋の下まで降りると、喧騒が嘘のように遠ざかった。川面に、灯籠の光が揺れている。
「なあ、メイリン」
墨雲の顔から、珍しく笑みが消えていた。
「俺は軽い男に見えるだろうが、冗談で言うことと言わないことは分けてる」
「……何が言いたいの」
「好きだ。何を隠していても、そのままのお前が」
髪に結んだ紐の端に、彼の指が触れる。
息が詰まった。この人は、何も聞かずに隣に立ってくれる。だから、巻き込めない。
「……私も。好き」
やっと、それだけを口にした。
彼は一度、瞬きをした。それから、息を吐くようにゆっくり笑う。
「……そうか。そうか」
片手で口元を覆い、視線を逸らす。
「待て、少し時間をくれ。こんな顔、お前に見せるつもりじゃなかった」
「どんな顔?」
「だらしない顔だ。見るな」
耳まで赤い横顔が、たまらなく愛しかった。
「お願いがあるの。今夜は、ひとりになりたくない」
墨雲の指が、一瞬だけ強張った。それから、メイリンの手を包む力が、ゆっくりと強くなる。
「……反則だろう、それは」
「そういう意味じゃ、なくて」
「わかってる。そういう顔じゃない」
彼は親指で、メイリンの頬を静かになぞった。
「何があったかは聞かない。話したくなったら、聞く。今夜は、俺が隣にいる。それで足りるか」
「……足りる」
「なら、決まりだ」
宿の灯りを落とすと、障子越しの灯籠の光が、部屋に淡く滲んだ。額が合わさり、前髪の上に、軽い口づけが落ちた。
「もう一回、言ってくれ」
「何を」
「さっきの」
「……好き」
「もう一回」
「しつこい」
「欲張りなんだよ、俺は。お前のことになると」
低く笑う声が、肌のすぐ近くで震えた。
「明日は舟を出そう。川の上から見る望月京は、悪くない」
「うん」
「その先のことは、お前と決める。逃げるなよ」
「逃げないよ」
生まれて初めてついた嘘だった。胸の奥が軋んだ。
やがて彼は、繋いだ手を離さないまま眠りに落ちた。メイリンは夜明けまで、その温もりを数えた。
四
森の泉に着くと、古参の従者が、無言で待っていた。秦家に三十年仕える老人だった。
「お嬢様」
「頼むわ」
髪紐をほどいて、手首に巻く。赤い紐の結び目を、きつく締める。これだけは、手放せなかった。
短刀を抜き、長い黒髪をひとつに握る。
手が、ほんの少しだけ震えた。幼い頃から、母が毎晩梳いてくれた髪だった。
(これは、私が選んだこと)
ざくり、と鈍い音がした。
その瞬間、体の奥から、何かがすっと抜けていった。器に穴が空いたように、魔力の底が、浅くなる。
従者が、足元に散るはずの黒を、白い布で受け止めた。
「王弟派の別邸の庭先に、置いてまいります」
「ええ。国師の探知は、あちらへ向かうはず」
老人の目が、わずかに潤んでいた。
「ご無事で」
「大丈夫。父の娘だもの」
水面に映る短髪の少女は、もう、侯爵家の令嬢ではなかった。軽くなった首筋を、朝の風が撫でる。
五
さらしで胸を押さえ、古着の男物を着て、森の道を歩く。
(声は、低く。低く……)
「……よぉ」
自分で聞いても、ひどい出来だった。さらに低く、と喉を絞ったところで、行く手に人影が現れた。
「おい、ガキ。ひとりか」
野盗が、五人。錆びた剣をぶら下げ、にやにやと取り囲んでくる。
「金目のもんを置いてきな。命までは取らねえ」
「ガキ……」
メイリンの眉が、ぴくりと動いた。
「ガキって言うな」
一人目の剣を、紙一重でかわして、懐へ踏み込む。肘を鳩尾に叩き込むと、男は声もなく崩れた。
二人目、三人目。呼吸の合間に、足を払い、腕を取り、地面に転がす。残りの二人が、同時に斬りかかってきた。
指先を、払う。
月光の鎖が走った。けれど、いつもの半分の長さしか出ない。
(……やっぱり)
髪を切った代償が、はっきりと体に出ていた。咄嗟に、袖口から月影の盾を広げる。刃を受けた盾は、薄く震え、ぎりぎりで持ちこたえた。
「ちっ、魔法使いかよ!」
頭目の怯んだ顔を見て、メイリンは小さく息を吐いた。
弱くなっても、積み上げてきたものは消えない。鎖が短いなら、近づけばいい。盾が薄いなら、当たらなければいい。
踏み込む。盾を捨て、拳に魔力を絞り込んで、頭目の顎を打ち抜いた。
巨体が、ゆっくりと倒れた。
静けさが戻った森の道で、メイリンは自分の手を見つめた。
(これでも、まだ戦える。……戦わなきゃ)
手首の赤い紐が、朝の光にほのかに揺れた。
振り返らずに、歩き出す。
六
同じ新月の夜。軍営の外れの月見台で、黒衣の者が、銀の器を掲げていた。
石の祭壇の上に、若い兵が三人、眠らされたまま横たわっている。体から細い光の糸が立ちのぼり、髪の根元が、黒から灰色へと変わっていく。
「新月ゆえ、やはり思うように吸えぬ」
低い声だった。男とも女ともつかない。
器の中の光は、まだ薄かった。
「足りぬ。次の満月まで、持たせるしかないか」
頭巾の奥で、誰かが呟いた。
「あの血筋が、手に入るまでは」
月のない空に、答える者はいなかった




