第3話 中学の時も、こうやって見てたよね
五年ぶりに再会した春樹と、美雨。
少しずつ近づいていく距離の中で、美雨は知ります。
自分ばかりが春樹を見ていたわけではなかったこと。
そして、いつも前を向いて走っていた春樹にも、今は怖いものがあることを。
二人が初めて、お互いの弱さに触れる第3話です。
春樹と再会してから、美雨は大学の中で何度も彼を見かけるようになった。
今までも同じキャンパスにいたはずなのに、どうして気づかなかったのだろう。
学食の入口。
体育館の前。
図書館へ向かう並木道。
夕方のグラウンド。
一度見つけてしまうと、春樹の姿は不思議なくらい目に入った。
そして、そのたびに胸が落ち着かなくなる。
春樹は見かけると必ず手を上げてくれた。
時には「美雨」と名前を呼んでくれた。
そのたび、美雨はまだ少しぎこちなく返事をした。
「おつかれ」
「うん。春樹くんも」
「今から授業?」
「そう。春樹くんは?」
「練習前のストレッチ」
春樹はそう言って笑った。
美雨は気づいていた。
その言い方が、少しだけごまかすように聞こえることに。
右足のこと。
走っている時に見せた苦しそうな顔。
練習の途中で速度を落としたこと。
気になる。
けれど、踏み込むのが怖い。
ある日の昼休み。
美雨が学食で席を探していると、奥のテーブルから声がした。
「美雨、こっち空いてる」
振り向くと、春樹が一人で座っていた。
トレーには大盛りのカレーとサラダ。
美雨の持っているトレーには、小さなうどんとお茶。
「いいの?」
「もちろん」
美雨は少し迷ってから、向かいの席に座った。
学食で春樹と向かい合っている。
それだけで、現実感がなかった。
「美雨って、いつも少食?」
「普通だよ。春樹くんが多いだけ」
「練習あるから」
「それ、全部食べて走れるの?」
「走れる。たぶん」
「たぶんなんだ」
春樹が笑う。
美雨もつられて少し笑った。
笑えた。
中学の頃、春樹の前では緊張してばかりで、自然に笑うことなんてできなかった。
それが今、普通に会話をしている。
嬉しい。
でも怖い。
距離が近くなるほど、昔の気持ちも近づいてくる。
春樹がカレーを食べながら言った。
「美雨、文学部ってことは、本読むの好き?」
「うん。小説が多いけど」
「中学の時も、よく本読んでたよな」
「覚えてるの?」
「覚えてるよ。休み時間、いつも窓際で読んでた」
「そんなところまで?」
「うん」
春樹はさらりと言った。
美雨は箸を止めた。
自分ばかりが春樹を見ていたのだと思っていた。
春樹は自分のことなんて知らないと思っていた。
でも、そうではなかったのかもしれない。
「春樹くんって、記憶力いいね」
「美雨のことは覚えてる」
心臓が大きく跳ねた。
春樹は言ってから、自分でも少し照れたように水を飲んだ。
「変な意味じゃなくて」
「う、うん」
「いや、変な意味じゃないって言うと、逆に変か」
「ちょっと変」
二人で笑った。
その笑いが、少しだけ甘かった。
昼休みが終わる頃、春樹が言った。
「今日の夕方、時間ある?」
「え?」
「練習、軽めだから。終わったら少し歩かない?」
美雨は返事に詰まった。
嬉しい。
でも、胸の奥に不安がある。
これはただの同級生として?
偶然再会した懐かしさだけ?
それとも。
期待したら、また苦しくなる。
でも断りたくなかった。
「……少しなら」
「じゃあ、グラウンドの横で待ってて。無理なら連絡して」
「うん」
春樹は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ただけで、美雨はもう断れなかった。
夕方。
空は薄いあんず色に染まっていた。
美雨はグラウンド横のベンチに座って、春樹の練習が終わるのを待っていた。
トラックを走る春樹の姿は、中学の頃より力強かった。
腕の振りも、足音も、呼吸も。
全部が大人になっている。
けれど、全力ではない。
春樹は途中で何度もペースを落とした。
コーチに呼ばれ、何かを言われて、うなずく。
笑っているけれど、その笑顔はやっぱり少し薄い。
練習が終わり、春樹がタオルで汗を拭きながら歩いてきた。
「待たせた」
「大丈夫」
「寒くない?」
「平気」
二人は並んでキャンパスの外周を歩いた。
雨上がりの道には、ところどころ水たまりが残っている。
街灯がつき始め、学生たちの声が遠くに聞こえた。
「中学の時さ」
春樹がぽつりと言った。
「美雨、放課後よく残ってたよね」
美雨の足が少し止まりそうになった。
「……うん」
「俺、最初はたまたまだと思ってた」
「うん」
「でも、いつ見ても窓際にいたから」
美雨は頬が熱くなるのを感じた。
「やっぱり、気づいてたんだ」
「気づくよ」
「気持ち悪くなかった?」
美雨が小さく言うと、春樹はすぐに首を振った。
「ならない」
「でも、ずっと見てたんだよ」
「うん」
「何も言えないのに」
「俺も、何も言えなかった」
美雨は春樹を見た。
春樹は前を向いたまま、少しだけ照れたように笑っていた。
「中学の時、俺、練習きつくてさ。やめたいと思った日もあった」
「春樹くんが?」
「あるよ。大会で負けた日とか、タイムが伸びなかった日とか。自分より速いやつ見ると、俺、何やってるんだろうって思った」
美雨は黙って聞いていた。
中学の頃の春樹は、いつも前を向いているように見えた。
迷わず走っているように見えた。
でも、春樹にも苦しい日があったのだ。
「でも、校庭に出るとさ、二階の窓に美雨がいた」
春樹の声が柔らかくなる。
「見てくれてる人がいるって思うと、もう一本だけ走ろうって思えた」
美雨の胸が震えた。
知らなかった。
そんなふうに届いていたなんて。
言葉にはできなかった。
手紙も渡せなかった。
でも、あの窓際にいた自分は、春樹の中に少しだけ残っていた。
「私、ただ見てただけだよ」
「それが嬉しかった」
春樹は足を止めた。
美雨も立ち止まる。
夕方の光が、春樹の横顔を淡く照らしている。
「卒業式の日も、校門のところにいたよね」
美雨は息を呑んだ。
「……覚えてるの?」
「覚えてる」
「あの日、私……」
好きだと言いたかった。
手紙を渡したかった。
でも、言えなかった。
美雨はそこまで言えずに黙った。
春樹は美雨を見た。
「俺も、あの日、美雨に話しかけようと思ってた」
「え?」
「でも友達に呼ばれて、そのまま行った。あとから、なんで戻らなかったんだろうって思った」
胸の奥で、何かがほどけていく。
あの日。
校門で目が合った時。
春樹も何かを言おうとしてくれていた。
美雨だけが、言えなかったわけじゃなかった。
「美雨」
春樹が名前を呼ぶ。
中学の頃、呼ばれたくて、でも呼ばれたらどうしていいか分からなかった名前。
今、その声が目の前にある。
「また、ちゃんと話したい」
春樹はゆっくり言った。
「中学の時に話せなかった分も」
美雨は、喉の奥が熱くなるのを感じた。
泣きたいわけじゃない。
でも、胸がいっぱいだった。
「……うん」
やっと、それだけ言った。
春樹は安心したように笑った。
その笑顔を見て、美雨は思った。
五年前の自分に教えてあげたい。
言えなかった恋は、終わりじゃなかった。
届かなかったと思っていた想いは、少しだけ届いていた。
そして今、もう一度、始まろうとしている。
しばらく歩いて、図書館の前に差しかかった時だった。
美雨のバッグから、一冊のノートが滑り落ちた。
「あ」
美雨が拾うより先に、春樹がかがんだ。
表紙に、手書きの題名が見える。
雨の日の校庭。
美雨は慌ててノートを取ろうとした。
「それ、いい。見ないで」
声が思ったより強く出た。
春樹はすぐに手を引いた。
「ごめん」
「違う、春樹くんが悪いんじゃなくて」
美雨はノートを胸に抱えた。
心臓がうるさい。
誰にも見せたことのないノート。
自分の中にしまってきた物語。
春樹への初恋に似た場面が、何度も出てくるノート。
見られたら、全部ばれてしまう気がした。
春樹は静かに言った。
「美雨、書いてるの?」
「……少しだけ」
「小説?」
「うん。でも、ただの趣味。誰にも見せたことない」
「読んでみたい」
美雨は首を振った。
「無理」
「そっか」
春樹はそれ以上、押してこなかった。
その優しさが逆に苦しかった。
美雨は小さく言った。
「怖いの」
「うん」
「つまらないって言われたら、もう書けなくなりそうで」
春樹は黙って聞いていた。
「だから、誰にも見せない。自分だけで書いて、自分だけで終わらせる」
それは初恋と同じだった。
好きな人に言えない。
書いたものを見せられない。
傷つかないように、始まる前に閉じ込める。
春樹はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「俺も、似てるかも」
「え?」
「走るの、怖い」
美雨は春樹を見た。
春樹は少しだけ笑った。
でも、その笑顔は痛そうだった。
「高校の終わりに右膝を痛めてから、前みたいに思い切って走れなくなった。記録より、走るのが怖くなった自分が嫌だった」
「春樹くんが、走るの怖いって思うの?」
「思うよ」
春樹はグラウンドの方を見た。
「走るのが好きだったはずなのに、今は走る前に考える。痛くなったらどうしよう。また前みたいに走れなかったらどうしようって」
美雨は何も言えなかった。
中学時代、春樹はいつも強く見えた。
大学でも、走り続けている彼は眩しく見えた。
でも、春樹も怖かったのだ。
美雨が書くことを怖がっているように。
春樹は走ることを怖がっている。
「ごめん。重い話した」
春樹が笑う。
美雨は首を振った。
「重くない」
春樹を見る。
今なら少しだけ分かる。
遠くから見ているだけでは分からなかった彼の痛みが、今は少しだけ見える。
「春樹くんの走ってるところ、私は今も好きだよ」
言ったあと、美雨は自分で驚いた。
春樹も驚いたように目を見開く。
美雨は顔が熱くなったけれど、言葉を続けた。
「速いからとか、記録がどうとか、そういうのは私には分からない。でも、春樹くんが走ってるところを見ると、私も何か書きたいって思う」
春樹の表情が変わった。
嬉しいような、苦しいような顔だった。
「……それ、すごい言葉だな」
「え?」
「今の、たぶんしばらく忘れない」
美雨は俯いた。
心臓が痛いくらい鳴っている。
春樹は柔らかく笑った。
「じゃあさ」
「うん」
「俺が、もう一回ちゃんと走る。だから美雨も、いつか俺に読ませてよ」
「えっ」
「無理にとは言わない。でも、いつか」
美雨はノートを抱きしめた。
怖い。
でも、春樹の言葉は不思議だった。
押しつけではないのに、閉じていた扉にそっと手をかけられたような気がした。
「……いつかなら」
「うん。いつかでいい」
春樹はそう言って笑った。
その笑顔に、美雨はまた胸を揺らした。
恋だけじゃない。
春樹は、美雨が隠していた夢まで見つけようとしてくれている。
美雨は思った。
今度こそ、逃げたくない。
好きという気持ちからも。
書きたいという気持ちからも。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
美雨がずっと窓から見つめていたことは、ちゃんと春樹に届いていました。
そして今度は、美雨が誰にも見せられずにいた「書くこと」と、春樹が抱えていた「走ることへの怖さ」が重なります。
「俺が、もう一回ちゃんと走る。だから美雨も、いつか俺に読ませてよ」
二人はそれぞれ、逃げていたものへ向き合い始めます。
次話では、美雨が五年間しまい込んでいた、卒業式の日の手紙が再び動き出します。




