第2話 放課後の校庭を走る春樹くん
五年前、美雨はどうして春樹を好きになったのか。
放課後の教室から、ただ走る彼を見つめていた日々。
そして卒業式の日、どうしても渡せなかった一通の手紙。
美雨の初恋の始まりを描く第2話です。
中学二年の春、美雨は窓際の席になった。
席替えでその場所に決まった時、特別嬉しかったわけではない。
ただ、外がよく見える席だと思った。
二階の窓からは、校庭が見えた。
放課後になると、運動部の声が響く。
サッカー部の掛け声。
野球部のボールを打つ音。
テニス部の笑い声。
その中に、陸上部がいた。
春樹くんは、そこで走っていた。
最初は、ただ目立つ人だと思っていた。
足が速い。
背が高い。
クラスは違うけれど、名前は知っている。
女子がよく噂している。
でも、美雨が春樹を好きになったのは、そういう分かりやすい理由からではなかった。
雨上がりの放課後だった。
校庭の土はまだ濡れていて、部活を休みにするところも多かった。
けれど陸上部だけは、軽い練習をしていた。
美雨は日直で、黒板を消していた。
教室にはもう誰もいなかった。
窓の外を見ると、春樹くんが一人で走っていた。
他の部員より少し遅れて。
息を切らしながら。
それでも、前だけを見て。
その姿から、なぜか目が離せなかった。
きれいだと思った。
男の子にそんなことを思うのは変かもしれない。
でも、濡れた校庭を走る春樹くんは、本当にきれいだった。
夕方の光を浴びた横顔。
泥のついた運動靴。
苦しそうなのに、諦めない目。
胸の奥が、小さく揺れた。
その日から、美雨は放課後になると窓際に残るようになった。
用もないのにノートを開く。
終わった宿題をもう一度見直す。
黒板のチョークの粉を、必要以上に丁寧に消す。
全部、春樹くんを見るためだった。
彼はいつも走っていた。
暑い日も。
風の強い日も。
小雨の日も。
その姿を見ると、美雨の一日は少しだけ特別になった。
でも、話しかけることはできなかった。
同じ学年。
同じ学校。
でも遠い。
春樹くんの周りには、いつも友達がいた。
明るい男子。
よく笑う女子。
先生たち。
美雨は、その輪の中に入れなかった。
廊下ですれ違うだけで、心臓が大きく鳴る。
目が合いそうになると、先に逸らしてしまう。
名前を呼ぶなんて、夢みたいに遠かった。
ある日、国語のノートの隅に、無意識で名前を書いていた。
春樹くん。
書いた瞬間、顔が熱くなった。
誰かに見られたわけでもないのに、美雨は慌てて消しゴムをかけた。
けれど筆圧が強くて、紙には薄く跡が残った。
その跡を指でなぞる。
名前を書くだけで、こんなに苦しいなんて知らなかった。
好きという気持ちは、もっと楽しいものだと思っていた。
でも実際は、嬉しいだけではなかった。
春樹くんを見られると嬉しい。
話せないと寂しい。
他の女子と笑っていると、胸が痛い。
でも、嫉妬できるほど近くない。
美雨の心は、毎日ゆらゆら揺れていた。
そして、その揺れをどうにもできない時、美雨はノートに物語を書いた。
主人公は、いつも少しだけ自分に似ていた。
言葉にできない気持ちを抱えた女の子。
誰かを遠くから見つめている女の子。
でも、物語の中では最後にちゃんと言える。
好き。
現実では言えない言葉を、紙の上では何度も書けた。
けれど、そのノートを誰かに見せることはなかった。
春樹くんへの気持ちと同じように、机の奥へしまっていた。
中学三年になって、春樹くんと初めて同じクラスになった。
教室に春樹くんがいる。
それだけで、美雨の毎日は落ち着かなくなった。
朝、彼が教室に入ってくる。
友達に「おはよう」と言う。
その声を聞くだけで、ノートを見るふりをした。
近くなったはずなのに、何もできない。
むしろ、近いからこそ苦しかった。
一度だけ、掃除当番で同じ班になったことがある。
放課後の廊下。
美雨がバケツを持って歩いていると、濡れた床で足を滑らせた。
「あぶない」
春樹くんが、とっさに腕を掴んでくれた。
手首に、彼の指が触れた。
たったそれだけで、美雨の胸は爆発しそうになった。
「大丈夫?」
近い声。
心配そうな目。
美雨は顔を上げられなかった。
「……大丈夫」
それだけ言うのが精一杯だった。
「よかった」
春樹くんは笑って、代わりにバケツを持ってくれた。
その日、美雨は家に帰ってからも、手首の感触を思い出していた。
何度も、何度も。
春樹くんにとっては、ただ同級生を助けただけ。
でも美雨にとっては、宝物みたいな記憶になった。
冬になると、卒業の話が増えた。
春樹くんは隣町の高校へ進むと聞いた。
陸上が強い高校だった。
美雨は地元の高校に進む予定だった。
卒業したら、もう会えなくなる。
分かっていた。
それでも、美雨は告白できなかった。
好きです。
たったそれだけなのに、言えなかった。
言った瞬間、今ある距離すら壊れてしまいそうだった。
同じ教室で彼を見られる日々まで、なくなってしまいそうだった。
卒業式の日。
美雨の鞄の中には、小さな手紙が入っていた。
卒業おめでとう。
ずっと好きでした。
何度も書き直して、ようやく書いた短い手紙。
渡すつもりだった。
今日こそは、名前を呼ぶつもりだった。
でも、春樹くんの周りには友達がたくさんいた。
女子たちも写真を撮ろうと集まっていた。
美雨は、教室の隅で手紙を握りしめるだけだった。
校門の近くで、春樹くんが友達と別れていた。
美雨は少し離れた場所から、その背中を見ていた。
彼が、ふと振り返る。
一瞬、目が合った。
今だ。
そう思った。
春樹くん。
呼べばいい。
手紙を渡せばいい。
好きだったと、言えばいい。
でも、声は出なかった。
春樹くんは少しだけ不思議そうに美雨を見た。
何か言いたそうに見えた。
けれど、友達に呼ばれて、また前を向いた。
そのまま、彼は校門の外へ歩いていった。
美雨は動けなかった。
鞄の中の手紙は、渡せないままだった。
好きという言葉も、胸の奥に残ったままだった。
その日の夜、美雨は手紙を机の引き出しにしまった。
捨てられなかった。
でも、読み返すこともできなかった。
その隣に、物語を書いたノートも一緒にしまった。
好きな人に気持ちを伝えることも。
自分の書いたものを誰かに見せることも。
美雨にはできなかった。
春樹くんへの初恋は、何も始まらないまま終わった。
そう思っていた。
五年後。
大学のグラウンドで、もう一度彼を見つけるまでは。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
春樹を見つめるだけだった中学時代。
「ずっと好きでした」と書いた手紙を用意しても、最後まで渡すことはできませんでした。
何も始まらないまま終わった――美雨は、ずっとそう思っていました。
けれど五年後、二人は同じ大学で再会します。
しかも春樹は、美雨が思っていた以上に、あの頃の彼女を覚えていて――。
次話、五年間止まっていた初恋が、少しずつ現在へ動き始めます。




