第1話 大学のグラウンドで、初恋を見つけた
五年前、好きと言えないまま終わった初恋。
もう会うことはないと思っていた彼を、美雨は大学のグラウンドで見つけます。
止まっていた時間が、もう一度動き出す第1話です。
五月の雨上がりは、少しだけ中学時代の匂いがした。
濡れたアスファルト。
風に揺れる若葉。
水たまりに映る、薄い夕方の空。
大学のキャンパスは、授業が終わる時間になると一気にざわめく。
サークル棟へ向かう人。
駅へ急ぐ人。
友達と学食に流れていく人。
スマホを見ながら歩く人。
その中で、美雨は一人、図書館の前に立っていた。
手には借りたばかりの本。
肩には、少しくたびれたトートバッグ。
バッグの中には、誰にも見せたことのないノートが入っている。
大学二年の春。
美雨は、まだこの大学に馴染みきれていなかった。
友達がいないわけではない。
講義で話す子もいるし、学食で一緒に昼を食べる相手もいる。
でも、どこかずっと、ひとりだった。
みんなが当たり前みたいに笑って、恋をして、サークルに打ち込んで、未来の話をしている。
その輪の外側で、美雨はいつも少し遅れて立っている。
中学の頃から、そうだった。
言いたいことがあっても、言う前に飲み込んでしまう。
好きなものがあっても、好きだと言うのが怖い。
誰かを見つめていても、声をかけることができない。
美雨は本を抱え直し、図書館の階段を下りた。
このまま駅へ向かうつもりだった。
けれど、雨上がりの風がふっと吹いて、グラウンドの方から笛の音が聞こえた。
思わず足が止まる。
大学の陸上グラウンドは、図書館の裏手にある。
美雨は普段、そちらへ行かない。
でも、その日はなぜか気になった。
足が、勝手にグラウンドへ向いた。
フェンスの向こうでは、陸上部らしい学生たちが練習をしていた。
赤茶色のトラック。
雨に濡れた芝生。
跳ねる水しぶき。
その中を、一人の男子学生が走っていた。
白いTシャツ。
黒い短パン。
長い脚が、トラックを蹴る。
速い。
けれど、その走りはどこか苦しそうだった。
フォームはきれいなのに、最後の直線で少しだけ乱れる。
右足をかばうような一瞬の動きが、美雨の目に残った。
それでも、その人は前を見て走っていた。
美雨は、フェンスの前で立ち止まった。
心臓が、一度だけ大きく鳴った。
まさか。
走っていた男子学生が、カーブを抜ける。
夕方の光が、横顔を照らした。
美雨は息を呑んだ。
春樹くん。
声にはならなかった。
けれど胸の中で、その名前がはっきり響いた。
中学の同級生。
陸上部。
放課後の校庭をいつも走っていた男の子。
美雨が一度も「好き」と言えなかった、初恋の人。
五年ぶりだった。
中学を卒業してから、高校は別々になった。
地元の駅で一度だけ見かけたことがある。
制服姿の春樹は、知らない友達と笑っていて、美雨は柱の陰に隠れるようにして通り過ぎた。
その時も、声をかけられなかった。
大学に入ってからは、もう会うこともないと思っていた。
同じ大学にいたなんて、知らなかった。
どうして。
いつから。
何学部なんだろう。
頭の中に疑問が浮かぶのに、身体は動かない。
春樹がトラックを走る姿を、美雨はただ見ていた。
中学時代と同じだった。
放課後の教室。
二階の窓。
校庭を走る春樹くん。
それを遠くから見つめるだけの自分。
五年経って、大学生になって、服装も場所も変わった。
それなのに、美雨の心だけがあの頃に戻ってしまう。
胸が痛い。
懐かしい。
嬉しい。
逃げたい。
全部が混ざって、息が少し苦しくなる。
春樹は走り終えると、トラック脇で膝に手をつき、深く息を吐いた。
顔を上げた瞬間、少しだけ苦しそうに右足へ視線を落とす。
チームメイトが何か声をかけた。
春樹は笑って頷いた。
その笑顔を見た瞬間、美雨の胸がきゅっと縮んだ。
変わっていない。
笑う前に、一瞬だけ目元が柔らかくなるところ。
人の話をちゃんと聞くところ。
走り終えたあと、空を見上げる癖。
覚えている。
嫌になるくらい、覚えている。
美雨は一歩下がった。
帰ろう。
見つけたところで、何もできない。
同じ大学にいたとしても、春樹にとって自分はただの中学の同級生だ。
名前だって、覚えているか分からない。
そう思って背を向けた瞬間だった。
「……美雨?」
背中に、声が落ちた。
美雨は固まった。
聞き間違いかと思った。
でも、もう一度呼ばれた。
「美雨、だよね?」
ゆっくり振り返る。
フェンスの向こうで、春樹がこちらを見ていた。
汗をかいた髪。
少し上がった息。
驚いたような目。
五年前より背が高くなっている。
顔つきも、大人びている。
でも、春樹だった。
美雨の初恋の人だった。
「……春樹くん?」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
春樹は一瞬だけ目を見開いて、それから笑った。
「やっぱり美雨だ」
その言葉だけで、胸がいっぱいになった。
覚えていた。
名前を。
私のことを。
美雨は本を抱きしめる手に力を込めた。
「同じ大学だったんだ」
「俺も今、びっくりしてる。美雨、文学部?」
「うん。春樹くんは?」
「スポーツ科学。二年」
「同じ学年だね」
「だな。五年ぶり?」
「卒業式以来……かな」
「そっか」
会話はぎこちなかった。
でも、春樹は普通に話してくれる。
中学の頃みたいに遠い人ではなく、フェンス一枚を挟んで目の前にいる。
それが不思議だった。
春樹がフェンスの出入口を指さした。
「ちょっと待ってて。そっち行く」
「え、いいよ。練習中でしょ」
「今、休憩だから」
春樹はチームメイトに何か声をかけて、こちらへ歩いてきた。
途中、ほんの少し右足を気にしたように見えた。
美雨は気づかないふりをした。
けれど、胸の奥に小さな違和感が残る。
フェンスの扉が開き、春樹が目の前に立つ。
近い。
中学の頃、同じ教室にいた時よりずっと近い。
「久しぶり」
「うん。久しぶり」
「全然変わってないね」
「それ、いい意味?」
「いい意味」
春樹はすぐに言った。
美雨は困って視線を落とした。
「春樹くんは変わった」
「え、悪い方?」
「違うよ。背、伸びたし。大人っぽくなった」
「美雨に言われると照れるな」
軽く笑う春樹に、美雨の頬が熱くなる。
何でもない会話のはずなのに、心がうまく落ち着かない。
春樹が美雨の抱えている本を見た。
「図書館?」
「うん。課題の本、借りてた」
「文学部っぽい」
「春樹くんは、ずっと陸上続けてるんだね」
「まあ、なんとなく」
「なんとなくで大学まで続けられるもの?」
「……どうだろうな」
春樹は笑った。
けれど、その笑顔は少しだけ薄かった。
美雨は何かを聞きかけて、やめた。
五年ぶりに会ったばかりの相手に、踏み込みすぎるのは怖い。
まして春樹は、あの春樹だ。
中学時代からずっと、遠くから見ていた人だ。
春樹がふいに言った。
「美雨」
「ん?」
「中学の時も、こうやって見てたよね」
美雨の呼吸が止まった。
春樹の声は、責めるものではなかった。
むしろ懐かしむような、柔らかい響きだった。
でも、美雨にはそれだけで十分だった。
見ていたことを、知られていた。
ずっと、自分だけの秘密だと思っていたのに。
「……気づいてたの?」
「うん」
「いつから?」
「中二くらいかな。放課後、教室の窓から」
春樹はグラウンドの方を見る。
「今日も、あの時みたいだったから。すぐ分かった」
美雨は何も言えなかった。
恥ずかしさで逃げたくなる。
でも同時に、胸の奥が熱くなる。
あの頃、遠くから見ていただけの気持ちは、完全に届いていなかったわけじゃない。
春樹の記憶の中に、少しだけ残っていた。
「ごめん」
美雨は小さく言った。
春樹が首を傾げる。
「なんで謝るの?」
「勝手に見てたから」
「嫌だったら、五年も覚えてないよ」
美雨は顔を上げた。
春樹は、まっすぐ美雨を見ていた。
その目に、昔よりも少し大人びた優しさがあった。
「俺は嬉しかったよ」
その一言で、美雨の胸が揺れた。
五年間、しまい込んでいた初恋が、雨上がりの土みたいに柔らかくほどけていく。
春樹が、少し照れたように目を逸らす。
「ごめん。急に変なこと言った」
「変じゃない」
美雨は慌てて首を振った。
「変じゃない、けど……びっくりした」
「だよな」
二人の間に、少しだけ沈黙が落ちた。
その沈黙は気まずいのに、嫌ではなかった。
グラウンドの方から春樹を呼ぶ声がする。
「春樹、そろそろ!」
「あ、行かなきゃ」
「うん。練習、頑張って」
言ってから、美雨は少し驚いた。
中学の頃は、そんな一言すら言えなかった。
春樹も驚いたように目を瞬かせたあと、嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
その笑顔を見た瞬間、美雨の胸はまた痛くなった。
春樹はフェンスの扉へ戻りかけて、ふと振り返った。
「美雨、また話していい?」
美雨は本を抱きしめたまま、頷いた。
「うん」
「じゃあ、また」
「またね」
春樹がグラウンドへ戻っていく。
美雨は、その背中を見送った。
五年前と同じように。
でも、今度は違う。
春樹は振り返ってくれた。
名前を呼んでくれた。
また話そうと言ってくれた。
胸の奥で、止まっていた時間が静かに動き出す。
美雨は小さく息を吐いた。
初恋は、終わったものだと思っていた。
でももしかしたら。
まだ、続きを始められるのかもしれない。
そう思った時だった。
グラウンドの向こうで、春樹が走り出した。
けれど、数歩進んだところで速度を落とした。
春樹は右膝に手を置き、少しだけ顔を歪める。
コーチらしい男性が駆け寄る。
美雨の胸が冷えた。
春樹は笑って大丈夫だと手を振っていた。
でも、美雨には分かった。
大丈夫じゃない笑い方だった。
中学の頃、どんなにつらくても前を向いて走っていた人。
その彼が今、走ることに少し怯えている。
美雨はフェンスの前で、動けなくなった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
五年ぶりに再会した春樹は、美雨のことを覚えていました。
しかも、中学時代に美雨が遠くから彼を見ていたことまで――。
けれど、再会した春樹には、美雨の知らない変化がありました。
彼が走るときに見せた「大丈夫じゃない笑い方」の理由とは。
次話では、美雨が春樹を好きになった中学時代へと時間を戻します。




