第26話:崩壊する王国と知らぬ令嬢
人間界の王国は、音を立てて崩れ去ろうとしていた。
かつて「太陽の王子」の輝きに酔いしれていた国民を待っていたのは、終わりのない凶作と、大地を這うような禍々しい疫病だった。
リリアーナという名の、無償で毒を吸い取り続けていた浄化装置を失ったことで、王土の魔力バランスは完全に崩壊したのだ。
広場では、かつてリリアーナに石を投げた者たちが、今度は彼女の肖像を掲げ、涙ながらに「聖女よ、戻り給え」と祈りを捧げている。
だが、その声が境界を越えて魔界に届くことは、永遠にない。
ゼパルの執務室には、人間界からの悲惨な報告書が山積みになっていた。
作物は枯れ果て、王宮はアリステアが撒き散らした毒素によって腐朽の途にある。
ゼパルはそれらの書類を、退屈な落書きでも見るかのように一瞥すると、指先一つで漆黒の炎の中に放り込んだ。
彼にとって、人間界の滅亡など、リリアーナに食べさせる菓子の鮮度よりも価値のないことだった。
「ゼパル様、何を焼いていらっしゃるの? 嫌な匂いがしますわ」
背後から、リリアーナが柔らかい足取りで近づいてきた。
彼女のまとうドレスの裾には、アリステアたちの絶望から精製された紫色の結晶が、星屑のように散りばめられている。
彼女の肌はかつてないほどに白く、その瞳には外の世界の汚れを一切知らない、無垢な輝きが宿っていた。
「ああ、何でもないよ、リリアーナ。ただの古い、価値のない記録だ。お前の目に触れるに値しない、醜いゴミのようなものだよ」
ゼパルは優雅に椅子から立ち上がると、リリアーナを抱き寄せ、その視線を窓の外の美しい魔界の庭園へと誘導した。
彼女の目に映るのは、ゼパルが丹精込めて作り上げた、美しく、優しく、そして極めて狭い「聖域」の景色だけだ。
彼女は自分の故郷が今、どのような地獄と化しているのか、かつての自分を虐げた人々がどのような無様な死を迎えているのか、何一つ知らない。
「そうなんですのね。あちら側の世界は、きっとこの場所ほど美しくはないのでしょうね」
リリアーナは、遠く霞む人間界の方角を一度だけ見つめ、興味なさそうに目を伏せた。
彼女にとって「外の世界」は、もはやお伽話に出てくる荒野のような、実体のない概念でしかなかった。
彼女を捨てた世界。彼女が守り抜き、裏切られた世界。
その世界が自業自得の破滅を迎え、自分に助けを求めているという事実さえ、彼女には知る権利すら与えられない。
断絶の間の鏡の裏で、アリステアは血の涙を流しながら鏡を掻きむしった。
自分の国が、自分の民が、死に絶えようとしている。
そして、その唯一の救いであるリリアーナが、自分の絶望を糧にして、自分の祖国の滅亡に一瞥もくれず微笑んでいる。
「……リリアーナ……。気づいてくれ……。みんな、死んでいくんだ……」
アリステアの掠れた叫びは、ゼパルの冷酷な魔力によってかき消される。
「お前は、この檻の中だけで幸せでいればいい。外の悲鳴など、お前の耳を汚すだけだ」
ゼパルはリリアーナの耳を塞ぐようにそっと手を当て、甘い口づけを落とした。
リリアーナは、世界が自分を求めていることさえ知らぬまま、悪魔が用意した完璧な孤独の中で、ただただ幸福に溺れていく。
リリアーナを切り捨てた王国に、もはや救いの手は残されていなかった。










