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忘却の対価は最果ての愛 ──絶望を悪魔に売却したので、元婚約者の名前すら思い出せません  作者: あとりえむ


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第25話:アリステアの精神的去勢

鏡の向こう側で繰り広げられる甘やかな情景は、アリステアにとって、いかなる拷問器具よりも鋭く彼の魂を削り取っていった。


ふかふかの長椅子に身を預け、ゼパルの逞しい腕に抱かれながら、リリアーナはかつて見たこともないほど蕩けた顔で微笑んでいる。


「ゼパル様、貴方のそばにいると、胸の奥がこんなに温かくなるのですわ。私は……貴方と出会うために、生まれてきたのかもしれません」


その言葉は、アリステアの鼓膜を直接焼き焦がした。

かつて彼女は、その献身的な愛のすべてを自分に注いでいたはずだった。


どんなに冷たくあしらっても、どんなに言葉の刃で切り刻んでも、彼女は健気にアリステアの毒を吸い取り、彼を輝かせるために微笑んでいた。


だが、今の彼女が向けているのは、義務でも自己犠牲でもない、純粋な一人の女性としての情愛だ。


アリステアは、自分でも気づかないうちに涙を流していた。

その涙が、鏡を通じて紫色の魔力結晶へと変換されていくたびに、彼は自らの存在が希薄になっていくのを感じた。


かつて自分が彼女に強いた「浄化」の苦しみ。

美貌を奪い、健康を損なわせ、彼女という人間を一つの機能にまで貶めた報い。


それが今、絶望という形をとって自分に返ってきている。


だが、これは救済ではない。

罪を認め、謝罪し、許されるための通過点ではないのだ。


それは、永遠に終わることのない「債務」の返済。

彼が絶望すればするほど、彼がかつて搾取した彼女の人生は、より美しく、より幸福な色に塗り替えられていく。


アリステアは、自分が彼女の幸福を維持するための、名もなき動力源に成り下がったことを悟った。


「ねえ、ゼパル様。この鏡に触れると、何かしら……とても惨めで、哀れな生き物の鳴き声が聞こえるような気がするのです」


リリアーナが、鏡のこちら側にいるアリステアを真っ直ぐに見据えて言った。

アリステアは息を呑み、鏡を叩いた。


ここだ、リリアーナ。僕を見てくれ。アリステアだ。君の婚約者だった男だ。


だが、リリアーナはふふ、と無邪気に笑って首を横に振った。


「気のせいかしら。そもそも、そんな卑しい生き物の名前なんて、知る必要もありませんものね」


彼女にとって、アリステア・フォン・ルミナスという男は、もはや塵ほどの記憶にも残っていない。


かつて命をかけて守った「太陽の王子」という輝きも、その傲慢な名前も、彼女の世界からは完全に抹消されている。

彼女にとってのアリステアは、たまに鏡の奥で蠢く、不快で名もなきノイズの一つでしかなかった。


アリステアは、その場に力なく崩れ落ちた。

自分がかつて彼女を「部品」として扱ったように、今は自分が彼女にとっての「背景」にすらなれていない。


男としてのプライド。王族としての矜持。

それらすべてが、彼女の無邪気な忘却によって粉々に砕け散っていく。


鏡の裏側の暗闇の中で、アリステアはもはや叫ぶことさえ止め、ただ一人の女性の幸福を支えるための、無機質な絶望の結晶へと堕ちていった。



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