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忘却の対価は最果ての愛 ──絶望を悪魔に売却したので、元婚約者の名前すら思い出せません  作者: あとりえむ


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第24話:欠落を埋める悪魔の囁き

窓の外に広がる魔界の景色は、今日も恐ろしいほどに美しかった。

リリアーナはテラスの縁に手をかけ、紫色の空を流れる雲をぼんやりと眺めていた。


ゼパルから与えられる日々は、甘い菓子と美しいドレス、そして惜しみない愛の言葉に満ちている。

何の不自由もなく、何の痛みもない。


それなのに、ふとした瞬間に、胸の奥に冷たい風が吹き抜けるような感覚に襲われることがあった。


それは、形を持たない空虚。

自分という存在の根底が、ごっそりと抜け落ちているような、頼りない不安。


「私は……以前、何をしていたのかしら」


無意識に漏れた呟きは、誰に届くこともなく空気に溶けるはずだった。

だが、そのわずかな心の揺らぎを、悪魔が逃すはずもなかった。


「おやおや。私の可愛いリリアーナ。何やら悲しい香りがするね」


背後から伸びてきた冷たくて長い指が、リリアーナの華奢な首筋を愛おしそうになぞる。

振り返らなくてもわかる。影のように自分に寄り添い、支配する男、ゼパルだ。


ゼパルは彼女の肩に顎を乗せ、その小さな不安を嗅ぎ取るように深く息を吸い込んだ。

彼にとって、リリアーナが過去を思い出そうとする時に生じる微かな苦しみは、最高級のデザートのようなものだった。


「ゼパル様。……私、時々わからなくなるのです。貴方に出会う前の私は、どんな風に笑い、誰のために生きていたのかしら」


リリアーナが不安げに瞳を揺らすと、ゼパルは彼女を優しく、けれど逃がさないように強く抱き寄せた。

鏡の向こう側で、アリステアと公爵たちが血を吐くような思いでその光景を注視している。

思い出してくれ、俺たちがそこにいるんだと、声にならない絶叫を上げながら。


「過去など、知る必要はないのだよ、リリアーナ」


ゼパルの囁きは、甘い毒のように彼女の耳から脳髄へと染み渡っていく。


「お前の白く清らかな心には、私が新しく書き込む幸福だけがあればいい。前の生活がどれほど惨めで、どれほどお前を傷つけるものだったか……それを教えるのは、私の愛が許さない」


ゼパルは彼女の耳たぶを優しく食み、その不安ごと記憶の残滓を吸い取っていく。


「お前を愛さない親、お前を道具としか見ない婚約者……。そんな汚らわしいもの、お前の美しい世界には一滴も混ぜてはならない。お前はただ、私の腕の中で『現在』という永遠に没頭していればいいのだ」


リリアーナの瞳から、一瞬宿った光がふっと消えていく。

ゼパルの言葉に身を委ねるたび、胸の奥の穴が、彼から与えられる甘美な熱によって埋め尽くされていく。


「……そう。そうでしたわ。私には貴方がいてくださる。過去なんて、きっとゴミ捨て場に落ちている石ころのように価値のないものなのでしょうね」


リリアーナは自分からゼパルの胸に顔を埋め、安らかな微笑みを浮かべた。

彼女は今、自らの手で自分を取り戻す可能性を完全に切り捨てたのだ。


鏡の向こうで、アリステアは崩れ落ちた。

自分がかつて彼女に強いた自己犠牲が、今は自発的な服従へと書き換えられ、自分の存在が彼女の人生から完全に抹消されていく。


「いい子だ。さあ、ティータイムにしよう。今日のお菓子には、お前の不安から精製した特別なシロップをかけてあるよ」


ゼパルは満足げに、鏡の裏側の男たちへ向けて冷酷な勝利の笑みを送った。

リリアーナの違和感さえも、彼を太らせ、彼女を縛るための糧となる。


終わらない幸福の円環の中で、リリアーナは自ら望んで、悪魔の用意した甘い地獄へと沈んでいった。



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