予兆
ヒモの王回の別視点となります。この世界でカンストしてない人たち。みんな歯を食いしばって、もがきながら一生懸命に生きています。
魔王が打倒されたその瞬間、大地が喜びに震えて花々を咲かせ、風が春の祝福を運び、太陽が輝かしい未来を照らす。
そんなお伽話のような奇跡は、この世界には訪れなかった。
すべてが丸く収まり、世界中の生きとし生けるものへ、都合よく、すぐさま等しく、救いが齎されるはずもなかった。
世界に残されたのは、あまりにも深すぎる爪痕。
今や世界は、一握りの地域が辛うじて復興と再建を進める一方で、大多数は「今日の現状維持」に必死だった。余裕のない時代を迎えていた。
ただひとつ、魔王という絶対的な統率者が消えたこと。
それによって、世界を駆逐せんとする組織的な軍勢の動きはなくなった。確かにそれだけでも、淘汰圧は劇的に減少したと言える。
しかし、それがもたらした別の歪みがあった。それとも是正されたともいえるのか。
かつての最前線。
魔王城に近かった土地では魔物の鳴りがぴたりと止んだ一方、そこから遠く離れた辺境の地では、皮肉にも魔物の活動が「活発化」し始めたのだ。
理由は単純。最前線に集中していた魔物の圧力が消え、世界各地へと薄く広く、平均的な分布に「均されて」分散したからである。
今まで比較的安全だったはずの辺境にまで魔物が散発的に出現するようになり、現地の人々はこれを「魔物の活発化」と呼んで恐れた。
かつて最前線を支えていた冒険者たちは、仕事の激減に伴い、拠点を次々と辺境へと移し始める。
だが、国家や権力者たちが手放したくない最高峰の戦力、『特級冒険者』の面々は、自らの領土や身の安全を守るための保険として、高額な報酬とともに元最前線の土地へ縛り付けられたままであった。
世界中の誰もが、他者を思いやる余裕を失っていた。
ゆえに、人々は街という単位で強く団結した。手の届く範囲の人間同士、お互いの手を痛いほどに固く握りしめる。
それこそが、この過酷な時代を生き抜くための生存戦略だった。
裏を返せば、隣町や遠く離れた土地のことなど、知ったことではないのだ。
自分の見えない範囲、手の届かない他人にまで構っている余裕は誰にもない。
見えない範囲の悲劇など、知ったことではないのだ。
だからこそ、何かを求めるなら「対価」を支払うのが絶対のルール。
無償の善意など存在しない。
そんな薄明の時代だからこそ。
何ひとつの対価も求めず、ただ無償の尽力をもって人を救う者が現れたなら。
損得勘定ばかりが先行する全てが仄暗い世界において、その存在は、一体どれほどまばゆい光となって人々の目に映るだろうか。
―――救世歴30年
これは、古き霊山を望む辺境の街『トコヨ』で起きた、新たな歴史の1ページ。
道半ばで折れ、錆びつき、人々に忘れ去られていたはずの物語が、今、静かに再び動き出す。
その紡がれる軌跡はやがて多くの人の胸を打ち、凍てついた心に灯をともす。
のちに人々は、それを英雄譚と呼んだ。
---
辺境の街トコヨの冒険者ギルド。
その窓口で、ベテラン職員のモモはいつも通りの業務をこなしていた。
17歳の頃からここで働き始め、今年で27歳。
私生活では3人の子供を持つ母親でもある。彼女の夫であるタカマは、トコヨに深く根を下ろした地場クラン、Bクラスの『山犬』の斥候を務めていた。
総勢8名からなる『山犬』は、全員が個人等級B級のベテランであり、その高い土地勘と地元への貢献度を評価されてランクを維持しているクランだ。
彼らは戦闘こそ得意ではないが、調査と情報収集、そしてそれらを整理して危機を未然に防ぐ能力においては、他の追随を許さない。
弱い魔物の間引きを行いながら、蓄積した情報から魔物の出現を正確に予測し、ギルドへ報告するのが彼らの主な役割だった。
「はい、お疲れ様でした。霊山周辺の薬草回収、確かに検品いたしました。こちらが今回の報酬になります。」
モモが駆け出しのC級冒険者に笑顔で報酬袋を手渡し、一息ついたその時だった。
ギルドの重い扉が乱暴に開き、夫のタカマが血相を変えて飛び込んできた。顔は汗だくで、呼吸は完全に乱れている。
「ハァ、ハァ……っ!モモ!うちのリーダーたちはいるよな!?ギルド長に定常報告で来てるよな!?緊急だ、繋いでくれ!」
「え、ええ。グレンさんもガルドさんも、今、奥の執務室でギルド長と話してるけど……どうしたの、一体?」
「緊急だ!すぐ通してくれ!」
いつも冷静な夫の異常事態に、モモは夫婦のよしみですべての手続きをすっ飛ばし、タカマをギルド長室へと直行させた。
執務室の机の奥では、この街を深く愛するギルド長が書類をめくっていた。
トコヨの街の貴族の次男坊であり、冒険者上がりではない男だ。
その前では、『山犬』のリーダーであるグレン・ストラウスと、副リーダーのガルド・ミーリルが話し込んでいる最中だった。
そこへ、タカマが猛然と飛び込んでくる。
突然の乱入に、ギルド長は書類の手を止め、ただ怪訝な顔を向けた。
しかし、グレンとガルドの顔色は一瞬で変わった。
優秀な身内の斥候が、ここまで息を切らし、汗だくになって割り込んでくるなど、尋常な事態ではないと直感したからだ。
「タカマ、落ち着け。まずは深く息を吸え。冷静にな。」
グレンの鋭くも冷静な声に、タカマは深く息を吸い込み、洗練された斥候としての報告を最短の一言に凝縮して放った。
「スタンピード予兆、レベル3。発生地点は『迎え樹の大霊樹』。昨日の定時巡回では、確実に影も形もなかった……。」
「「な……ッ!?」」
「レ、レベル3……!?さ、さ、3だってぇ!?」
冒険者上がりではなく、やんごきなき貴族の次男坊としてこの職に就いたギルド長が、椅子から転げ落ちんばかりに取り乱す。
その場にいた全員の背筋に、氷水を浴びせられたような戦慄が走った。
「み、見間違いではないのか!?そんな馬鹿な!昨日までは何もなかったのだろう!?予兆というのは、数週間をかけてじわじわと成長するもののはずだ!いきなりレベル3など、お、おおおおかしいだろう!!」
無能を自認し、現場のことはすべて優秀な地場クランに任せているギルド長だが、だからこそ『山犬』の報告を疑うこともしなかった。
ただ、その現実の不条理さに恐慌をきたしている。
スタンピード(魔物の大量発生)の予兆。
それは、出現地点の空間に禍々しい『黒線虫』がゆらりと生える現象を指す。
「仮に俺がクソバカやらかして昨日見落としていたとしても、一晩であれほど激しくはためくレベル3まで育つわけがない……!」
タカマの必死の形相に、ガルドが息を呑む。地場クラン『山犬』の斥候が、そんな初歩的な見落としをするはずがないのだ。
「……タカマの言うとおりだ。レベル3になるには最速でもレベル2から4日はかかる。セオリーが完全に狂った。そう考えて動くしかない。」
重々しく口を開いたのは、リーダーのグレンだった。
本来なら、短い『黒線虫』は段階を踏んで成長し、最終的には扇風機にくくりつけられたビニール紐のように激しくはためく形態へと至る。
だが、その絶対の法則は、無惨にも覆された。
そこへ、追い打ちをかけるように執務室の扉が何度も開け放たれた。
『山犬』の優秀な斥候メンバーたち。
レイガ、ジンガ、シオン、クロバ、そして最後に飛び込んできたババルが、息を切らせて次々と部屋に突っ込んでくる。
何度も激しく開閉された扉は、最後には開けっ放しになり、室内に冷たい緊張感が吹き込んだ。
「リーダー!『境界』の大霊樹に予兆を確認した!レベル3だ!」
「『望み』の大霊樹でも予兆レベル3を確認!」
「予兆3を『霧座』の大霊樹で見たぞ!嘘だろおい!」
全員の報告を合算し、『山犬』リーダーのグレンがトコヨ周辺の地図の上に素早く印をつけていく。
霊山を抱く深淵なる森、大森林。
その中にそびえる『大霊樹』は、トコヨの民にとって欠かせぬ道標であり、この過酷な世界を生きる者たちの心の拠り所だった。
森のどこにいても街の方角を教えてくれる、優しく神聖な木のはずだった。
それが今や、四本の大霊樹すべてが無残に穢され、一晩にして『レベル3』の禍々しい予兆が噴き出している。
副リーダーのガルドが、即座にトコヨに現在滞在しているギルド戦力を計算し、険しい表情で呟いた。
「この規模のスタンピードを正面から抑え込むなら、Aクラスクランが最低でも8チームは必要だ。だが、運良くこの周辺に滞在しているAクラスクランをかき集めても……足りねえ、全くいねえな。」
「なら、やることはひとつだ。『芽潰し』を徹底して時間を稼ぎ、潰せる予兆は可能な限り潰す。その間に、外部からAクラスクランを呼べるだけ呼び集める。芽潰し人員として、今すぐ街のBクラスクランすべてにあたらせる。俺たちを含めて6チームだ。」
「ゆゆゆゆ、ゆ猶予は、……猶予はどれほどだ、グレン……!」
『山犬』リーダーのグレンの冷徹な判断に、ギルド長がすがりつくように声を上げた。
「従来のセオリーが踏み倒されてるので、正直わかりません。いま、この瞬間に発生してるかもしれませんし、今夜かもしれませんし、数日後かもしれません。ただ、言えることは……あまり時間はないのかもしれないということです。」
「ギルド長。あの激しくはためく黒線虫どもがドロドロに溶け、地面に『黒い沼』を形成した時点でレベル4。スタンピード発生確定だ。沼になっちまったら、もう俺たちにできることはねえ。あとは大噴出を待つだけの地獄が始まる。」
貴族の次男坊であり、冒険者上がりではないギルド長の額からは、たらたらと冷や汗が流れ落ちている。
「あと、クランに所属してない、個人等級C級の冒険者は絶対にフィールドに出すな。突発的に漏れ出た先兵と遭遇すれば確実に死ぬし、状況が致命的になりかねん。他の街へ使い走りとして出せ。死に物狂いでAクラスを調達してこいとな。」
「ち、近くの街から、Bクラスクランを数でかき集めてくるのはどうだ!?Aクラスクランがいないのであれば、数の暴力でその穴を埋められないのかね!?」
グレンは首を横に振った。
「ギルド長、Bクラスクランを何人集めても、Aクラスクランの代わりにはならないんです。あれらの戦闘力は、俺たち一般の冒険者から見れば、文字通りの『人外』なんですよ。それに、他所からBクラスクランを集めてここに到着する頃には、スタンピードの第一波がきっと始まっているでしょう。これだけ複数地点で同時に予兆が出るなんて、噴出圧が強すぎます。もし俺が他所のBクラスクランなら、ここに到着した瞬間にケツを捲って逃げ出しますよ。話が違う、ってね。」
ガルドが自嘲気味に笑う。
「ハハハ、正直、今だって俺の足は震えて止まりませんよ。……まぁ、俺たちはここで生まれ育ったんで、逃げやしませんけどね。だからギルド長、人員を調達するなら、Aクラスクランの一点に絞ってください。」
ギルド長の顔から迷いが消え、その瞳には、この街『トコヨ』を深く愛する者としての強い覚悟の光が宿っている。
「……わかった。私は戦いのことは何もわからない。すべて君たちに一任する。私は、この街が好きなのだ……。捨てて逃げたくはない。何かあったら、責任はすべてこの私が被ろう。まあ、何かあったその時点では、この街は跡形もなく消え去っているだろうがね! ハハハハハ!」
最後には恐怖のあまり少し壊れた笑い声を上げたギルド長だが、その眼に逃亡の文字はなかった。
今の時代、隣町へ逃げ延びたところで、余裕のない他人が受け入れてくれるはずもない。
街を捨てるという選択肢は、最初から存在しないのだ。
「モモ、Aクラスクランのみを対象とした緊急募集をかけろ。報酬は予兆レベル3の規定通り。ただし、ギルド貢献度は特例で『フルスペックのスタンピード相当』を付与する、としろ。Aクラスクランの連中を釣るなら、これしかない。」
「えっ……でも、『フルスペックのスタンピード相当』だなんて、誰も来ないんじゃ……。だって、それは『防衛義務なし』の破滅宣言ですよ?それに、そんな貢献度設定、不正疑われますよ……?」
モモの当然の懸念に、グレンはギルド長を一瞥した。
「そこはギルド長がなんとかしてくれるさ。不正を疑われようが、街が滅ぶよりはマシだ。」
即日、トコヨの街に滞在するすべてのAクラスクランに緊急招集がかかり、昼夜を問わぬ『芽潰し』の作戦が敢行される。
人員は二交代制。日中は積極的な予兆の間引きと先兵の排除を行い、夜間は監視をメインとする過酷な戦いが始まった。
動員されたのは以下の6チーム。
- 『山犬』:斥候能力に定評のある地場クラン(6名)
- 『霧渡り』:霧の中での戦闘に特化したバランス型の地場クラン(10名)
- 『トコヨ守備団』:個人等級C級も多く混ざるが、指揮系統がはっきりしており、組織的に動ける自警団色の強い最大世帯(25名)
- 『白峰』:地場クラン最強のバランス型。1名男性魔法使いを擁する(10名)
- 『ストーンガード』:最前線から移動してきた、全員が大盾を装備する鉄壁の集団(15名)
- 『ヴァルホルン』:同じく最前線組、全員が巨大な両手武器を操る近接専門集団(13名)
この世界の普通の人たち、ちょっと強い人たちの視点をお楽しみください。




