小さな火種
ヒモ回を見返してほしい。
この落差を…
「皆さま!いつまでそこに無様に座り込んでいるのです!命の恩人であるイガラシさまに対して、その非礼極まる態度は何事ですか!?ほら、速やかに立ち上がって自己紹介をなさい! これ以上わたくしに恥をかかせるなら、」
叱咤の声を張り上げながら、リオナは胸の奥で静かに息を呑んだ。
いまの彼らは、あの日の記憶の中の私と重なって見えたのだ。
助けられたのに、礼を言う機会を逃し、
そのまま二度と会えず、
十数年ものあいだ、心に楔のように刺さり続けた後悔。
のどに小骨が刺さったように、ずっと抜けなかった痛み。
同じ思いを、戦友たちに味わわせたくない。
このお礼を言える奇跡の瞬間を逃させてはならない。
だからこそ、強く背中を押す。
これは叱責ではなく、彼らを後悔から守るための発破だ。
そして、一通り全員に礼を言わせた。
---
「ところでイガラシさま、命の恩人である貴方さまに、ぜひ我がクランを挙げて出来うる限りの最高の礼を尽くしたいのですが……!望まれるものはございますでしょうか。何なりとお申し付けください!」
一通り仲間たちに礼を言わせ終えたあと、リオナは思わず両膝をつき、胸の前で両手を組んだ。
まるで神前にひれ伏すような姿勢で、救い主へ最大限の敬意を示す。
―――もう後悔はない。
正式にお礼も伝えられた。
名前を聞けた。
十数年胸に刺さっていた棘は、完全に抜け落ちた。
だからこそ、ここから先は冒険者としての矜持の話だ。
施しを受けたまま、ただ救われた側で終わるつもりはない。
命を救われたなら、その対価を支払うのが筋。
そして―――その礼を誰よりも先に尽くしたいという、抑えきれない欲が胸に湧き上がる。
他の仲間を出し抜く形になるのは分かっている。
だが、白花の槍のリーダーとして、そしてひとりの冒険者として、
この恩に報いる最初の一歩は、自分が踏み出したかった。
「イガラシさま……先ほどの癒しの御業、本当に言葉もございません。もしあれほどの重傷を負えば、命を落とす者はおろか、生き残っても二度と武器を持てないほどの障害が残り、冒険者として生きていけなくなる……生き残っても地獄という、最悪の結末を迎えていたはずです。それを、すべて救ってくださった。」
リオナは、あらためて何を救われたのかをイガラシに正確に伝えようとした。
あの傷は、ただの重傷ではない。
普通なら命が助かっても、腕は動かず、脚は折れたまま、感覚も戻らず。
冒険者としての人生は、そこで完全に終わっていた。
つまり、助かったところで地獄の続きが待っているような傷だったのだ。
命だけでなく、未来そのものを救ってくれた。
その恩の大きさを、リオナは相手にきちんと理解してほしかった。
「何ひとつ対価を要求することなく、ただ博愛の精神をもって御業を差し出してくださった。そんな気高くも慈悲深い貴方さまに、心からの敬意を表します。……ですが、これほどの至高の御業を賜るだけ賜っておきながら、何もお返ししないというのは、Aクラスクランを率いる者として、そして冒険者としての沽券に関わります。つきましては、まずは治療の代金をお支払いしたく存じます。」
この手の高潔なお方は、直接の金銭を好まれない傾向にある。
クランを挙げてのお礼というのも受け取ってくれるかもわからない。
だからこそ、冒険者の沽券の問題、ギルド規定に基づく正当な対価として受け取っていただく形を提示し、一つ目は断られても、二つ目を断りづらくする心理も利用する。
「これほどの重篤な案件の治療費となりますと、冒険者ギルドの口座経由でのお振り込みとさせていただきたいのですが……。その、お差し支えなければ、イガラシさまはギルドへのご登録、ならびに専用の口座はお持ちでしょうか……?」
―――ここからが本番だ、とリオナは息を整えた。
おそらく、いやほぼ確実に、彼には正式な登録がない。
あるいは、何らかの事情で行動に制限のある立場なのだろう。
身分を伏せて動いている者にとって、足跡になるような記録は致命的だ。
だからこそ、ギルドに名を刻むようなやり取りは避けたいはずだ。
彼の反応は、まさにそれを裏付けていた。
少し戸惑い、答えを探すように沈黙する―――
その反応を見る限り、リオナの推測は大きく外れてはいない。
わずかな沈黙。
呼吸の揺らぎ。
返答を探すような、ほんの一瞬の間。
そのどれもが、リオナには雄弁だった。
―――ああ、この方には、こちらが踏み込みすぎてはならない事情があるのだ。
兜越しでも伝わる慎重さが、彼の立場を物語っていた。
語るにも選ばねばならないことがある。
答えを出すにも、越えてはならない線がある。
その静かな気配を読み取った瞬間、
リオナの胸に確かな確信が宿った。
こちらが配慮すべき境界線が、確かに存在する。
「あ、いえ!もし、その……お立場上、あるいは諸々の御事情により、ギルド登録、並びに口座も開いていないということであれば、決して無理にとはっ!!ただ、その場合でも何とかしてお支払いする方法を模索したく……。」
報酬の受け渡しは、本来ならギルド口座を通すのが一番早くて確実だ。
だが、それが使えないとなれば、別の手段を考えるしかない。
たとえば、商会をひとつ立ち上げて、彼を名目上の役員に据える。
そこへ報酬を役員報酬として流し込めば、誰にも怪しまれない……はず。
そんなグレー寄りの案が次々と浮かんできては消え、軽く頭を抱えた。
―――と、そのとき。
「お見事、ご推察の通りですよ。元より一つの場所に留まらぬ流浪の身。修行の妨げになるような面倒事しがらみは、できるだけ避けて生きてきました。ゆえにギルド登録の類いは一切していないのです。……それに、お恥ずかしながら、どうにもあのような細かい手続きというやつが苦手なタチでしてね。ハハハ!」
(やはり…!!)
リオナの瞳の奥で、確信の炎が燃え上がった。
今まで「面倒事」、つまりは政治的なしがらみを嫌ってギルド登録などを避けていたのだ。
しかし今、『手続きが面倒で苦手』とまで譲歩してくださった。
つまり、こちらが手続きの一切合切をうまく秘匿し、政治的な面倒事の火種にならないように完璧な環境を整えさえすれば「良い」という奥ゆかしい言葉なのだ!
完璧な落としどころを見つけたリオナは、絶対にこの好機を逃すまいと、相手の気が変わらないうちに即座に畳みかけた。
「ご安心ください、イガラシさま!ご自身の情報を公に遺したくないというお考えも、歴史の裏で果たすべき崇高な目的のためにしがらみを避けておられることも、すべてわかっております!!これほどの御業を持つ貴方さまがギルドに登録などすれば、欲にまみれた者に目をつけられ、政治闘争に巻き込まれて、都合よく組織の型に嵌められてしまうというリスクが発生してしまうのは明白っ!ですが!そのような面倒事、この『白花の槍』リーダーであるリオナ・エルド・スピカの名において、絶対に、絶対にさせませんわ!!!イガラシさまはただ口座を作っていただき、私どもの治療代金を受け取っていただくだけで良いのです!」
えぇ、すべてわかっておりますとも。
ただ私たちは命の対価のお支払いをしたいだけで、ギルドに端を発しそうなしがらみや面倒事に、貴方さまを巻き込むつもりは毛頭ないのです。
そして、この面倒事に巻き込まれないという確実な方法はすでに彼女の頭の中にあった。『特級の恩賞』を使うのだ。
ギルドが総力を挙げて個人の願いを一つ叶えるという、至高のシステム。
今回の未曾有のスタンピード対応の実績を長年の貢献度分と合わせれば、彼女は確実に特級に認定されるだろう。
この一生に一度の権利を使い、イガラシさまの情報を徹底的に守らせる。
「面倒事に巻き込まない」とギルド側に絶対の誓約を結ばせるのだ。ギルド側からしても厄介な外部調整を抱えるより、内部調整だけで済むこの特級恩賞の願いは渡りに船であるはずだ。
「えっ、いや、でも手続きとかが……。」
(あぶない!)
リオナは心の中で悲鳴を上げた。彼の決意が揺らいでいるように見える。
前のめりすぎたか!?手続きというワードへの拒否反応が強すぎる。
やはり高潔なお方には、不正な手段、強硬な手段というのはあまり覚えが良くないのか…っ!
しかし!ここで逃がせば一生の悔いが残る。最短でケリをつけねば!
彼女はなりふり構わず、ズザザッと膝行でイガラシとの距離を詰め、下から見上げるように顔を大接近させた。
その目は血走り、有無を言わさぬ凄まじい圧力を放っている。
「すべて!わたくしが確認を取り、書類の手続きも全て代行いたします!イガラシさまは内容に納得していただければ、最後にサインをひとつ、ただそれだけにして見せますので!ですからどうか……我々の命の、代金を、受け取る権利だけは、放棄しないでくださいまし……っ!」
もはや懇願という名の物理的プレッシャーだった。
あまりの剣幕と至近距離からの圧にタジタジになった漆黒の剣士は、ついに観念したように息を吐いた。
「そこまで言っていただけるなら……お言葉に甘えてもよいだろうか。リオナ殿。」
「っ……! ありがとうございます! ありがとうございます!」
あぁ、やった。やり遂げた。
記憶の中の幼いわたしへ。
わたしはやりました。
もう、あの絶望の過去に囚われません。
過去の、すべてを奪われた可哀想な少女から、やっと一歩、前に進める。
「では、口座の件はすべてお任せするとして。先ほどリオナ殿が言ってくれた『クランのお礼』とやらについて、一つ我が儘を言わせてもらってもいいだろうか?」
「はい!わたくしに出来ることであれば、何なりとお申し付けください!」
幸福に満たされているところに、さらなる幸福が降って湧いてきた。
おそらく彼のような御方は遠慮をしてクランとしてのお礼などは受け取らず、そのまま風のように姿をくらますのだろうと、半ば諦めていた。
だが、なんと向こうからお礼の要求を口にしてくださったのだ!!!
「ならば、ひとつ我が儘な『望み』を口にさせてもらおうか。この先にある街で最も上等な宿に身を寄せ、そこで供される美味を、いや、この地のどんな食べ物も、これでもかと腹一杯にご馳走になりたい。……こう見えて私は、いささか『健啖家』でね。求道の身でありながら、バカみたいによく食べるのだよ。これからは流浪の旅路の傍ら、各地のまだ見ぬ食文化を、片っ端から味わい尽くす……そんな生き方も悪くないと思っていてね。」
(あぁ……なんて、なんて思慮深く謙虚なお方なのだろうか。)
リオナの胸の奥が、熱い感動で震えた。
身一つで世界を救うような絶技を持ちながら、要求するのはただの「食事と宿」。
こちら側の事情を深く気遣い、最も実現しやすいもので、かつ絶対に無駄にならない「願い」をあえて選んでくださったのだ。
「ふふっ、まぁ! 剣の極致にいらっしゃるようなお方ですから、どれほどの無理難題を求められるかと緊張していましたが…まさか、美味しいご飯とお宿だなんて。承知いたしました、すべてわたくしにお任せください! イガラシさまがご満足いただけるよう、街一番の宿と、最高の美食をご用意いたしますわ!」
この地に滞在している間は、すべての宿泊、すべての食事の手配を全力でやる。
絶対に手抜きや抜かりなど許さない。
クランの威信をかけて――いや、スピカの名に誓って、この救世主を全力でもてなすのだ。
リオナの胸には、澄み渡るような希望と、揺るぎない決意が満ちていた。
その奥底で、静かに、しかし確かに――
何かが過剰に燃え始めていることに、彼女自身はまだ気づいていなかった。
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