6話 感情が見えてしまった男
暗殺者は、道場から少し離れた路地で足を止めた。
理由は分からない。
身体に異常はない。呼吸も、脈も、平常だ。
それなのに一歩、踏み出した瞬間だった。
時間が、止まった。
音が消え、風が抜け落ちる。
代わりに、あの夜の匂いが、戻ってきた。
*
夜の記憶は、音から始まる。
湿った石畳。
港町特有の、生臭い風。
足音が多い。想定より、確実に。
こちら三人だった。
前に盾役。後ろに魔術師。中央に、自分。
この仲間と何度も潜り抜けてきた修羅場。
「……来るな」
盾役が低く呟いた。
矢が飛び、石が弾け、火花が散る。
「散開!」
声は、はっきり出ていた。
判断も速い。間違っていない。
次の瞬間、悲鳴が上がる。
脚を撃ち抜かれて、魔術師が倒れた。
追っ手の距離をはかる。
残弾。地形。計算は一瞬で終わった。
――このまま残れば、全滅する。
それは正しい判断だった。
「先に行け」
盾役が言った。
あらかじめ用意されていた言葉のように、自然だった。
魔術師が、こちらを見る。
泣いていた。声が震えている。
「……行かないで」
暗殺者は、口を開きかけ……何も言わなかった。
言葉を返した瞬間、自分が選ぶ側になると分かっていたからだ。
一歩、退いた。
それだけで、決着はついた。
怒鳴り声。金属音。叫び。
背後で、音が薄れてれていく。
走りながら、暗殺者は何度も同じことを考えた。
正しい。判断は正しい。間違っていない。
そうでなければ、自分は、あそこから生き延びてはいけない。
◆
それからだった。
夜が、うるさくなったのは。
目を閉じると、あの視線が浮かぶ。
泣いていた顔。縋る声。背を向けた、自分。
――だから、捨てた。
感情も、迷いも、ためらいも。
後悔を抱えたままでは、「正しかった」と言い続けられない。
自分を否定する勇気がなかった。
感情を削るほど、任務は正確になった。
判断は速くなり、躊躇は消えた。
一流と呼ばれるようになった。
夜は、静かになった。
もう夢も見ない。声も聞こえない。
――本当に、正しかったのか。
ふと、そんな問いが浮かぶことがある。
すぐに意味のない問いだと、切り捨てる。
答えなど、出るはずがない。
◆
――音が、戻る。
風が流れ、時間が再び動き出す。
目の前に、老人がいた。
さっきまで、ただの影のように見えていた存在。
なのに血が、巡っている。
皮膚が、呼吸に合わせてわずかに動く。
胸が、上下している。
生きている。はっきりと、生きている。
刃を向ければ、血が流れ、肉が裂け、命が終わる。
その想像が、初めて、現実として立ち上がった。
「……っ」
今まで、感じなかったはずのものが、胸の奥から、ゆっくりと浮かび上がってくる。
ためらい。迷い。拒絶。後悔。絶望
――感情。
老人は、何もしていない。
ただ、そこにいる在り方が、ひどく怖かった。
温かい。静かだ。
男は、剣を下ろした。
理由は、説明できない。
ただ――
これ以上、前に進めなかった。




