5話 寝ているだけの老人
朝の道場は、いつも通り静かだった。
板張りの床に差し込む光。
その中央で、老人が座っている。
起きているのか、寝ているのか。
近くで見ても、柚葉にはよく分からない。
「……ねえ、おじいちゃん」
返事はない。
「昨日さ」
「私が大事に取っておいた最中、なかったんだけど」
沈黙。
「二つあったよね?」
「ちゃんと覚えてるからね?」
老人は、ぴくりとも動かない。
「……はぁ」
柚葉は諦めたように箒を持ち直す。
「もういい。どうせ聞こえてないんでしょ」
「聞こえておるぞ」
「聞こえてるんじゃん!!」
即座に振り返る。
「今の間はなに!?」
玄斎は、ふうと息を吐いた。
「昔もな、魔王を一人で倒したあと、西の勇者が怒ってのう」
ぴたり、と箒が止まる。
「……は?」
柚葉が、ゆっくりと振り返る。
「今、なんて?」
「西の勇者――名前はなんだったかの」
「腰を悪くして、今は野菜を売っとると言っておった」
「……え?」
沈黙。
「……いやいやいやいや。情報量多すぎでしょ!」
玄斎は、また目を閉じた。
「信じる要素どこにあるの!」
そのときだった。
――空気が、わずかに変わった。
風が止まり、庭の葉擦れの音が消える。
柚葉は、背中にぞくりとしたものを感じた。
「……?」
戸口に、人影があった。
音もなく立っている。
気配が薄く、視線だけが鋭い。
黒ずくめの装束。
腰には、細身の短剣。
柚葉が息を呑む。
「……誰」
暗殺者――
その男は答えない。
ただ、標的を見る目で、道場を見渡す。
視線が、縁側の老人に止まる。
玄斎は、相変わらず目を閉じたままだ。
暗殺者は、一歩踏み出す。
完璧な距離。
完璧な角度。
――殺せる。
はずだった。
次の瞬間、暗殺者の動きが、止まった。
心臓の位置は分かる。
喉も、急所も見えている。
なのに――
そこへ向かう理由が、見つからない。
老人は、何もしていない。
ただ、そこにいるだけだ。
柚葉には、ただこう見えた。
「……え?」
「なんで止まってるの?」
暗殺者は、剣を下ろした。
それ以上、前に進まなかった。
しばらくして、男は静かに踵を返す。
ただ、来たときと同じように、音もなく去っていった。
戸が閉まる。
道場に、朝の空気が戻る。
「……なに、今の」
柚葉が、ぽつりと呟く。
縁側を見る。
玄斎は、すうすうと寝息を立てていた。
本当に、最初から最後まで、何もしていないようにしか見えない。
「……暗殺者、だよね?」
柚葉は、首を振って箒を持ち直す。
「……なんかすごく、悲しそうだった」
老人の口元が、
わずかに緩んだような気がした。
――本当に、気のせいかもしれない。
「てか、最中の話、ごまかそうとしてないよね」
返事はなかった。
絞った雑巾はすでに乾いていた。




