4話 境界を越えなかった男
道場を出てから、男はしばらく立ち尽くしていた。
足は動く。
体も、どこも悪くない。
掌の中に、布の感触がある。
お守りだ。
「……切れた、か」
確かめるように呟く。
だが、破れてはいない。
ただ、縫い目の端に、細い裂け目が一本。
引っ張れば、簡単に広がりそうな――そんな傷だった。
道場の光景が、脳裏に浮かぶ。
目を閉じ、背筋を伸ばし、微動だにしない老人。
ふざけているようにも見えた。
だから、一歩、踏み込んだ。
剣に手をかけ、足を送る。
いつも通りの、脅し半分の踏み込み。
踏み出した、その瞬間。
距離の感覚が、消えた。
目の前の老人の顔が、揺らぐ。
輪郭が、ずれる。
皺の寄った皮膚が伸び、骨格が歪む。
眉。
頬の線。
口元。
そこにあったはずの顔が――
自分の顔になっていた。
酒で荒れた肌に濁った目。怒号で掠れた喉。
見慣れた顔だ。
だが、そこで終わらなかった。
皮膚が、さらに垂れ下がる。
目の奥が濁り、輪郭が崩れていく。
「……誰だ」
思わず、声が漏れる。
違う。これは俺じゃない。
息が詰まる。
斬ればいい。
剣を振り下ろせばいい。
そうすれば、否定できる。
あれは自分じゃないと、切り捨てられる。
――だが。
振り下ろされるはずの剣が、空で止まる。
その瞬間、掌の中でかすかな感触があった。
縫い目が、鳴った気がした。
一瞬だけ、小さな手が、こちらに伸びたように見えた。
◆
体はやせ細り、こちらに顔を向ける少女。
毛布を握りしめたまま、
唇の端だけを、必死に持ち上げる。
「……おとうちゃん」
そう聞こえた気がした。
最初は、本当に、守るためだった。
いつからか、恐れられることが楽になった。
そして、娘の顔を思い出せなくなっていった。
「……違うな」
男は、ぽつりと言った。
「止められたんじゃねえ」
裂け目に、親指を添える。
「見えただけだ」
越えたら、戻れなくなる線が。
自分で、自分を斬る前に。
男は、落とした視線を上げたとき、老人は、元のままそこに座っていた。
◆
子分たちの方を振り返る。
「今日で終わりだ」
「……え?」
「この道場の件じゃねえ。全部だ」
ざわめきが起きる。
理由を求める視線が集まる。
「お頭、どういう――」
「やめだ」
説明できない。
言葉にすれば、安っぽくなると分かっていた。
男は、背を向ける。
家へ向かう道は、決して楽じゃない。
金も、立場も、失う。
守れる保証など、どこにもない。
それでも――
その日を境に、町でも名の知れたごろつきが一人、姿を消した。
ひっそりと一本の剣だけが、置かれていた。




