3話 剣を止める老人
朝の道場は、妙に静かだった。
板張りの床に光が差し込み、その中央で、老人が座っている。
背は伸び、目は閉じられたまま、起きているのか、寝ているのか――
近くで見ても、よく分からない。
「……おじいちゃん」
柚葉が、じっと睨む。
「昨日さ、私が棚の奥に隠しておいた羊羹、なくなってたんだけど」
返事はない。
「聞こえてるでしょ」
沈黙。
玄斎は、ぴくりとも動かない。
「……はぁ」
柚葉は呆れたように息を吐く。
「そういえばさ……金平糖。ちょっと高いやつ、買ってきたんだけど」
ぱちん。玄斎の目が、はっきりと開いた。
「――ほう?」
「やっぱ聞こえてんじゃん!!」
柚葉が即座に叫ぶ。
「甘いものの話だけ聞こえるとか、どういう耳してんの!昨日だって――」
柚葉が声を荒げる。
「昔はな」
玄斎が、ぽつりと言った。
「……大きなドラゴンを、刀一本で斬った」
「はいはい」
即座に返す。
「昨日は千人斬りで、その前は山を割ったって言ってた。今日はドラゴンね」
「城ほどあった」
「サイズの問題じゃないから!」
柚葉は箒を取り直す。
「はいはい、おじいちゃんはすごいすごい」
玄斎は、それ以上何も言わなかった。
――そのときだ。
道場の戸が、乱暴に開け放たれた。
土足のまま踏み込んでくる足音が、いくつも重なる。
木の床が軋み、空気がざらついた。
柚葉が、はっと振り返る。
「ちょ、ちょっと……誰?」
男たちが、なだれ込んでくる。
柄の悪い視線が、道場を舐め回した。
「ここが道場か?」
「随分と、のんびりしてんな」
柚葉は、思わず老人の前に出た。
先頭に立つのは、柄の悪い男たち。
声を張り上げ、わざと大きく笑い、周囲を威圧する。
「みかじめ料だよ。知らねえとは言わせねえぞ」
「この辺で商売してんなら、筋通せって話だ」
騒いでいるのは、子分たちばかりだった。
道場の奥、畳の上に座った老人は顔を上げない。
湯飲みを置き、ゆっくりと息を吐くだけだ。
「おい、聞いてんのかよ!」
声が尖る。
そのとき、子分の一人が後ろを振り返った。
「……お頭、なんか言ってやってくださいよ」
視線が集まる。
それなりの体格。それなりの風格。
この界隈では名の通った頭だった。
「じいさん、ここは俺たちの縄張りだ。穏便に済ませたい」
「金を払うか、出ていくか――選べ」
老人は、ようやく顔を上げた。
何も言われていない。睨まれてもいない。
なのに、男は理由もなく苛立った。
「……なんだ、その目は」
鼻で笑い、一歩、踏み出す。
「こんなじじい――」
一歩、踏み出した瞬間だった。
ころり、と。
紐が解け、中身が落ちる。
――いや。
落ちた、というより裂けていた。
布は、真っ二つ。
まるで、刃物で断ち切られたように。
だが、誰も動いていない。
剣は抜かれていない。
老人は、まだ座ったままだ。
布の中から、写真が落ちた。
「……っ」
次の瞬間――
男は、すっと頭を下げていた。
「……引くぞ」
子分たちが、ざわめく。
「お、お頭!?」
「なんで――」
「帰る」
それだけ言って、背を向ける。
戸が閉まり、騒がしかった道場に、また朝の静けさが戻った。
「ねえ、おじいちゃん。さっきの人……剣、抜く前に止まったよね」
玄斎は、目を閉じたまま言った。
「自分を斬る剣じゃ」
「なにそれ?」
返事はなかった。
ただ、湯飲みの中の湯が、かすかに波打っていた。




