2話 山を見てしまった男
剣に手をかけた。
――その瞬間だった。
息を吸おうとして、吸えない。
視界が、わずかに歪んだ。
道場の床板が、遠ざかる。見覚えのある光景。
――故郷だ。
幼い頃、野を駆け回っていた。
背丈を越える草を踏み倒し、土を蹴り、
ただ走るだけで、世界のすべてを手に入れた気がしていた。
やがて、剣を知り、木刀を握った。
仲間がいた。師がいた。その背中を追い――
ある日、あっさりと追い越した。
周囲の目が変わっていく。
悔しさや怒り。やがて、恐れ。
皆、同じ顔になる。
届かないと悟った者の顔だ。
――退屈だ。
強さとは何か。
本当に「上」は、どこにあるのか。
それを確かめるためだけに、強者と呼ばれる者を求め、歩き続けた。
踏みならした土の数だけ、勝ち星が増えていく。
その高さを、男は「頂」だと思っていた。
――そして、今。
音が、消えていた。
男は、顔を上げる。
そこにあったのは、故郷の山々。
山肌は柔らかく滲んでいる。
湿った苔。陽に焼けた岩。夏草の青さ。
――違う。ただの記憶じゃない。
そう思った瞬間、別の理解が、追い打ちをかける。
自分がどこに立っているのか。
視線が、否応なく引き上げられる。
遥か高み。
雲を突き抜け、空をも押し上げるような山のてっぺんに――
一人の老人が、座していた。
膝を組み、目を閉じたまま、動かない。
こちらを見てもいない。
存在だけが、異様なまでに鮮明だった。
あの老人は、山の上に「いる」のではない。
山が、あの老人の「下」に敷かれている。
そう思わせる何かがあった。
そもそも、同じ土俵にいない。
――負けた。
世界が、元に戻る。
開け放たれた道場の縁側から、昼の風が流れ込んでいる。
老人は、相変わらず、目を閉じていた。
何も変わっていない。
◆
道場を出たところで、男は立ち止まった。
足はまだ震えている。
だが、呼吸は、ようやく自分のものに戻っていた。
「……負けるとは、こういうことか」
口に出してみると、その声は驚くほど静かだった。
男は、土で汚れた膝を払う。
手のひらを太ももに添え、ゆっくりと立ち上がった。
後に男は、こう語る。
――本物を、見た。
その日、斬られることなく完敗した男は、やがて剣聖と呼ばれるようになる。
すべては、あの一瞬――
山のかなたに座す老人に、目も合わせてもらえなかったそのときから、始まった。




