1話 剣を抜かせない老人
朝の道場は、静かだった。
板張りの床に光が差し、
その真ん中で、一人の老人が座っている。
背筋は伸び、肩は落ちている。
呼吸があるのかどうかは、少し離れると分からない。
「……また寝てる」
雑巾を持った柚葉が、ため息まじりに言った。
老人――神無玄斎は、返事をしない。
瞼は閉じたまま座禅なのか、居眠りなのか、柚葉には違いが分からない。
「昼飯は、まだかのう」
唐突に、声だけが落ちてきた。
「だから! さっき朝ごはん食べたでしょ!」
反射的に怒鳴る。
祖父の玄斎は、独り言のように続ける。
「若いころは、千の敵を一振りで倒したもんじゃが」
「はいはい。この前は五百人だったでしょ」
雑巾を動かす。
いつものやり取り。いつもの朝。
――また始まった。
昔話の英雄譚。
どこまで本気で言っているのかもわからない。
そのとき、玄斎のまぶたが、ぴくりと動いた。
ピクッ。
ほんのわずかな動きなのに、やけにはっきり見えた。
「……そこ」
低い声。
「汚れておるぞ」
「っ……!」
玄斎の視線の先を追う。
柱と床板の境目に、黒い汚れがひとかたまり、こびりついている。
さっきから何度も拭いていたはずなのに、そこだけは、なぜか見落としていた。
「わ、わかってるわよ! だから掃除してるんでしょ!」
強めに言い返すと返事はない。
見ると、玄斎はもう、さっきと同じ顔で眠っている。
……本当に、起きていたのかどうかさえ、怪しい。
そのとき、外から足音がした。
荒い息。重たい足取り。
「ここが……心眼一刀流の道場か」
木戸が開き、道場の入り口に影が差す。
剣を腰に下げた男が立っていた。
鍛え上げた体つき。血走った目。
道場破り。
最近増えている、噂を聞きつけた連中だ。
「道場の者よ。用があるなら、あたしに――」
言いかけて、男の視線が縁側に向く。
男の口が、ニヤリと歪む。
「ヨボヨボのじいさん一人を相手ってのも……拍子抜けだな」
玄斎は相変わらず、縁側で居眠りしているだけだ。
ただ、それだけ。柚葉も、そう思った。
次の瞬間、男は剣に手をかけ――
固まった。
汗が、額を伝う。
剣は抜かれていない。老人は一切動いていない。
道場の空気が、ほんの少しだけ重くなった気がした。
「……違う。今のは……床が、滑っただけだ」
言い訳のような声。
そう言って立ち上がろうとして、
男は、自分の足に力が入らないことに気づいた。
「……間違って、た……」
震える声で、男は呟く。何を、とは言わない。
しばらくして、男は頭を下げ、道場を去っていった。
玄関の戸が閉まる音だけが、やけに大きく響く。
柚葉は、ぽかんと立ち尽くす。
「……なに、あれ」
縁側を見る。
玄斎は、口を半開きにして、すうすうと。
さっきと寸分違わない姿勢で。
「夢でも見てたんじゃないの……」
自分に言い聞かせるように呟き、柚葉は雑巾を持ち直す。
「三流は型を振り、二流は技に溺れ、一流は己を……」
ふと、以前聞いた言葉を口にする。
「なんだっけ、おじいちゃん」
返事はない。
昼の風だけが、掛け軸を揺らしながら、道場を通り抜けていった。




