13話 伝説
門の外が、黒くなった。雲ではない。
地平線を埋める、魔物の影だ。
「……来るぞ」
門楼の上で、弓兵が呟く。
声が出たことに、自分で驚いた。
数が多すぎる。群れという言葉では足りない。
あれは濁流だ。
蹄が地面を叩く音が、波のように押し寄せてくる。
地響きが、板を揺らし、腹の底を揺らす。
「前に……誰かいるぞ!」
誰かが叫んだ。
門の正面にひとりの老人が立っていた。
手には、ふとん叩き棒みたいな棒が一本。
「戻れ! 死ぬぞ!」
叫びは届かない。
届いたところで、老人は振り返らない。
次の瞬間、土煙が上がった。
魔物の先頭が地面をえぐり、土を跳ね上げ、視界が白く埋まる。
鳴き声と爪の音と骨の震える音が、ひとつの塊になって押し寄せた。
弓兵は息を止めた。
――終わった。
土煙の向こうから、音だけが抜けていく。
門へぶつかるはずの足音が、横へ流れていく。
右。
左。
右。
左右へ、左右へ。
まるで、そこに通ってはいけない線が引かれているみたいに。
「……今、見たか?」
弓兵の隣で、誰かが囁いた。
「棒を……振った?」
「いや、違う。見えない。土煙で……でも、あの動きは」
言葉が、先に結論へ走る。
振ったはずだ。振ったから割れた。
そうでなければ説明がつかない。
やがて土煙が収まった。門の外に残っていたのは――
棒を肩にひっかけ、まるで散歩の途中で立ち止まっただけのように、そこにいた。
服は裂けていない。
髪も乱れていない。
息も上がっていない。
そしてその前だけ、魔物の濁流が左右へ割れた形のまま、一本の道ができていた。
「……道、だ」
誰かが、掠れた声で言った。
魔物が、そこを通らなかった。
群れは、その脇を駆け抜け、やがて、町を避けるように遠ざかって消えていった。
◆ ギルドの記録
「スキル反応なし」
受付の女が、何度も水晶板を叩く。
「魔力波形も検出されていません」
「武器登録も、称号反応も……ゼロです」
報告書の枠には、不明の文字だけが並んでいく。
記録官は、しばらく沈黙したあと、書き直した。
――己の言葉で、書くしかない。
そう判断したのだ。
『未知の高位存在による威圧的制圧』
「……そう書くしかないな」
誰も、反論できなかった。
◆ 教会の解釈
「神罰ではありません」
司祭は、慎重に言葉を選ぶ。
「むしろ――祝福です」
「争いを起こさず、血を流さず、邪気のみを祓った」
説教台の前列にいた信徒の一人が、息を呑む。
「では……あの方は?」
司祭は、すぐには答えない。
視線を伏せ、祈るように指を組む。
「……御使い、もしくは神が、一瞬だけ人の形を借りたのかもしれません」
堂内に、ざわめきが広がる。
「人が、あのようなことを?」
「奇跡ではないのか」
「奇跡かどうかを決めるのは我々ではありません」
司祭は静かに首を振った。
「ただ――あの日、門の前に在ったものを、我々は神と呼ぶしかないのです」
◆ 軍の報告
「敵は壊滅?」
「いや、撤退です」
「損害は?」
「……ゼロ」
会議室が、ざわつく。
「一兵も動かさず? 迎撃陣形も取らずに?」
報告兵は、手元の記録を見下ろし、はっきりと言った。
「門の外に立っていた老人一名。 それ以外の要因は、確認されていません」
やがて、一人の将校がこめかみを押さえた。
「……厄災級だな」
「敵ではなく、ですか?」
「味方にいるうちは、守護神だろうさ」
将校は、乾いた笑いをひとつだけ漏らした。
◆ 酒場の噂
「見たか?」
「いや、見てねえ」
「光の刃がな、空から――」
「違う違う、地面が真っ二つだ」
「魔物が土下座したって話だぞ」
酒が進むにつれ、話は膨らむ。
「剣は?」
「神器だよ、神器」
「いや、いつも、食ってるあれが秘密だろ」
「……そんな、やばいものだったのか」
夜の酒場には、笑えないざわめきが広がっていった。
斬らず、奪わず、ただ立ち道を作る。
こう呼ぶしかない何かが、あの日、そこに立っていた。
――斬らぬ最強。
名もなき老人は、こうしてその日のうちに伝説になった。




