10話 孫
八百屋の店先は、朝から賑やかだった。
籠を抱えた客たちが、値札を睨み、季節を嘆き、財布と相談する。
柚葉は、その中央に立っていた。
目は鋭く、声は遠慮がない。
「おにいさん。これ、昨日より小松菜しなってない?」
「しなってねぇよ、朝露だ朝露」
「朝露は値段に乗せないで」
店先の青年がむっとする。
その奥から、ヨボヨボのじいさん――八百屋の西の勇者が顔を出した。
「おうおう、騒がしいのう。元気でよろしい」
「元気じゃない。物価が元気」
柚葉はにんじんを掲げる。
「これも高いし」
西の勇者は肩をすくめて笑った。
「うちの店先で剣を振るうな」
「剣じゃない。交渉」
柚葉は値札を指で叩く。
「二割引き」
「無茶言うな」
「一割」
沈黙。
「……今日は負けでええ」
「ありがと」
柚葉は当然の顔で頷いた。
そのとき、じいさんがふと柚葉の手元を見た。
籠の取っ手に結ばれた、小さな紐。
古びた結び目の色褪せた飾り。
じいさんの目が、一瞬だけ遠くなる。
「……まだ、それを使っとるのか」
「ん? これ?」
柚葉は紐を持ち上げる。
「ただの飾りだけど。玄斎が『落とすな』ってうるさいから」
じいさんは、笑うような顔で、笑わなかった。
「落とすな、か……あの人らしい」
柚葉は首を傾げる。
「ねえ。八百屋のおじいちゃんさ、今日はなんのホラ話?」
「失礼な。全部事実じゃ」
「はいはい。今日は何、斬った?」
「……魔王」
「はいはい。魔王ね。で、玄斎は干し芋食ってた?」
じいさんが、ふっと笑った。
「食ってた」
柚葉は「もういいや」という顔で、野菜を籠に入れる。
「で、玄斎が倒したってオチよね」
一拍。
「――倒せんかった」
空気が、わずかに止まった。
「え?」
柚葉は聞き返す。
「今なんて?聞き間違い?」
西の勇者は、干し芋から目を逸らした。
「倒したのは、玄斎がいた二度目じゃ。 一度目は、間に合わなかった」
「なにそれ、珍しいじゃん。負け話とか」
「盛れん話も、たまにはある」
柚葉は、ふと疑問を口にする。
「……そのとき町とか、大丈夫だったの?」
西の勇者の手が止まる。
「町は――全滅じゃ」
柚葉は、しばらく黙った。
「ふーん」
軽く、相づちを打つ。
それは、遠い話を聞くときの声だった。
「で? どこの町?」
西の勇者は答えなかった。
柚葉は、少し首を傾げる。
「……ねえ、それってさ。私の生まれた町?」
西の勇者が、ゆっくり顔を上げた。
それは肯定だった。
「おかしいと思ってたんだよね」
柚葉は、笑う。
「私がさ、玄斎の血を継いでたら、もうちょい剣とか使えてるでしょ」
言った瞬間、じいさんの手が止まった。
干し芋を包む紙の端が、指に貼り付いたまま動かない。
「だって私、運動神経壊滅的だし、走るの遅いし、投げるの下手だし」
「値切りの才能はある」
「褒めてないでしょ、それ」
柚葉は笑ったまま続ける。
「武勇伝が本当なら、今頃私、剣聖だよ」
顔を上げると、じいさんは柚葉を見ていなかった。
柚葉の“顔の奥”を見ている。
笑いが、少しだけ止まる。
「……え、なに。その顔」
「いや」
じいさんは干し芋を包み終え、柚葉に差し出した。
「……本当はさ」
柚葉が言う。
「玄斎の孫なんかじゃないんでしょ」
じいさんは、首を横に振る。
「孫というのは便利な言葉じゃ。外に説明がつく」
「は?」
柚葉の声が乾く。
「……なに、それ」
「急にじゃない。お嬢ちゃんが“血”の話をした」
じいさんは、一度だけ息を吸った。
「玄斎の血じゃない、という話なら、半分は、当たっとる」
柚葉の眉が、わずかに動く。
「お前の父は――」
そこで、言葉を切る。
「玄斎が、自分から弟子にした男じゃ。一番弟子じゃった」
柚葉の喉が、きゅっと狭くなる。
「……うそ」
「嘘ならよかった」
じいさんは視線を落とした。
「強かった。真っ直ぐだった。真っ直ぐすぎた」
柚葉は籠の取っ手を握り締める。
指先が白くなる。
「……父さんと母さんは、事故で死んだって」
「事故じゃ」
じいさんは静かに言う。
「ただし――人の手じゃない」
「……は?」
「相手が、悪かった」
しばらくの沈黙。
「魔王じゃ」
柚葉の胸がざわつく。
冗談の単語が、冗談じゃない温度で置かれる。
「魔王が現れた時、玄斎もわしも、別の場所におった」
「じゃあ、父さんは?」
「……」
声が低くなる。
「強い者が前に出る。それは正しい。だが、魔王相手には、足りんかった」
八百屋の喧騒が遠くなる。
籠が、さっきよりずっと重い。
「……じゃあ、玄斎が私を拾ってきた?」
じいさんは、柚葉の紐を見る。
「孫にするしかなかった。守るためじゃ」
柚葉は笑いそうになって、笑えなかった。
「なにそれ……勝手すぎる」
「言うつもりはなかった」
「じゃあ、なんで言ったの」
じいさんは少しだけ声を落とす。
「血筋に夢を見るのは、危ない」
「父さんを、悪く言わないで」
「言っとらん」
珍しく、強い声。
「誇りだからこそ、痛い」
柚葉は干し芋を受け取った。
受け取ってしまったのが、腹立たしい。
「……玄斎は、知ってるの」
「知っておる」
「じゃあ、なんで言わないの」
じいさんは、まっすぐ見る。
「言えば、お嬢ちゃんは家を出る」
図星だった。
野菜の山。
そこだけが現実で、胸の中だけが沈んでいく。
「……私、玄斎の孫じゃないの?」
「ああ」
じいさんは干し芋の包みを、指で軽く叩いた。
「じゃが、帰る場所は、あそこじゃ」
柚葉は頷けなかった。
籠を抱え、店先を離れる。
「玄斎を責めるな」
背中に、声が落ちてくる。
「玄斎は言わないことで、守る人間じゃ」
柚葉は振り返らなかった。
干し芋の包みが、やけに温かい。
それが、余計に腹が立った。
玄斎の待つ道場への道が、いつもより長く感じられた。




