第9話:心の穴と、血の砂時計
馬車の車輪が轍に落ちるたび、シグルの心は泥濘へと沈んでいくようだった。
ぐるぐると思考が回り続け、泥沼の中にいるようだった。
いや、今、私は混乱しているのだ。
まず、思考の地面に足をつけよう。
モルガンが突きつけたのは、逃げ場のない二択だ。
村へ戻る: シグルは極刑か追放。エルナは再び「黄金の檻」へ戻り、バルトの種を宿して生き長らえる。二人は二度と会えない。
旅を続ける: 二人は共にいられる。しかしエルナの命は、激しく燃える松明のように、あっという間に尽き果てる。
「私が……私が、あんたを殺しているのね、エルナ……」
シグルの拳から血が滲む。鋼の腹筋と称された強靭な体も、今はただ、罪悪感に震えるだけの肉塊に成り下がっていた。
また、思考の地面から足が離れ、回り始めた。
1. エルナの告白
その時、震えるシグルの手を、温かくて柔らかな手が包み込みました。
エルナです。彼女の目尻にはシワがあり、髪には白が混じっている。
けれど、その瞳だけは、ルナ・フェリスにいた頃よりもずっと、澄み渡っていました。
「シグル、泣かないで。……私ね、ずっと寂しかったの」
エルナは静かに語り始めました。
「子供の頃、巫女として村のみんなが豊かになり、喜ぶ姿を見ることが私の幸せだと言い聞かされてきたわ。
収穫祭でみんなが笑い、贅沢な食事を囲むのを見て、私も嬉しいと思っていた。
……でもね、いつからか気づいちゃったの」
エルナの視線が、遠くの、今はなき村の幻影を見つめます。
「みんなが笑っている輪の外に、私は一人で立っていた。彼らが喜んでいるのは『私』じゃなくて、私がもたらす『富』だけ。……私の心にはね、誰にも見えない、暗くて深い穴があいていたの。その穴を覗き込んでくれる人は、村には一人もいなかった」
エルナはシグルの手を強く握りしめました。
「その穴に、真っ白な光を照らしてくれたのは、シグルだけだった。……美味しいねって言い合えること。お尻が痛いって笑い合えること。私にとっての『幸せ』は、長く生きることじゃなくて、心を通わせる人と一緒にいることだったのよ」
シグルは顔を上げ、エルナを見つめました。
十四歳の少女の魂を持ったまま、大人びた姿になったエルナの、揺るぎない覚悟。
「……行きましょう、シグル。私は、あのお人形のような毎日に戻りたくない。明日死ぬとしても、あなたの隣で、私の心を持って死にたいの」
シグルは嗚咽を飲み込み、力強く頷きました。
二人は固く手を繋ぎ、モルガンへ向き直りました。
「――決まったわ。私たちは、前へ進む」
2. 追跡者バルトの「所有欲」
一方その頃。 村の境界付近に陣を敷いたバルトは、部下たちを前に狂気を含んだ声を荒らげていました。
「……何をしている! 早くあの女たちを捕らえろ! エルナの胎が若いうちに、私の種を植え付けねばならんのだ!」
バルトにとって、エルナの心などどうでもいい。彼が恐れているのは、巫女の血筋が途絶え、村の繁栄――すなわち自分の特権が失われることだけでした。
「巫女の世代交代はカレンダーで決められている! 次の魔物狩りまでに子が産まれなければ、ルナ・フェリスは干からびるのだぞ! シグルなど殺しても構わん。
だが、エルナの四肢を折ってでも、生きたまま連れ戻せ!」
バルトの瞳には、かつてシグルの肉体を品定めした時のような、歪んだ収集家の執念がギラつていました。彼にとってエルナは、ただの「生産設備」に過ぎないのです。
3. モルガンの提案:記憶の代償
馬車の中。モルガンは二人の決意を見届け、満足そうに(しかしどこか悲しげに)口角を上げました。
「……よかろう。ならば教えよう、老化を止め、呪いを切り離す唯一の方法――**『忘却の断罪』**だ」
儀式の正体: エルナの体内にある魅了の核を、外界の魔力から完全に遮断する処置。
残酷な代償: 呪い(魅了)は、宿主の魂の一部に癒着している。それを引き剥がすには、魂の最も強固な結びつき……すなわち**「大切な記憶」**をすべて燃やし、そのエネルギーで封印を施す必要がある。
「シグル。この儀式を行えば、エルナの老化は止まり、普通の女の子に戻れるだろう。
……だが、引き換えに彼女は、お前との旅も、お前の名前も、自分が誰であったかも、すべて忘れることになる」
シグルが言葉を失う横で、エルナは微かに微笑みました。
「……いいですよ。シグルが私のことを覚えていてくれるなら。私があなたの名前を忘れても、また一から、お尻が痛い旅を始めればいいだけですもの」
これが、シグルの笑顔を取り戻す唯一の選択であると、悟っていた。




