嵐の予知と、戦士たちの休息
「健の奴、最高の道を開きやがった! ――勇敢なる大和の兵たちよ、盾の男たちに遅れるな! この勢いのまま一気呵成に山頂の大洞窟へ攻め入るぞ!」
崩落した石垣の土煙が燻る港で、モモが『布都御魂の写し』を掲げて気炎を吐いた。
「お待ちくだされ、皇子!」
そこへ、額の汗を拭いながらイヌが重々しく進言する。
「賊の快速船を殲滅し、この巨岩の石垣をブチ破った兵たちの足腰はすでに限界。疲弊しておりますれば、まずは休息が必要かと! 焦って突入すれば、暗い洞窟の中で鬼どもの不意打ちの餌食になりまする!」
「私はモモに賛成だ。大和の副将、お前は甘い」
背負った長弓の弦を小さく弾きながら、キジが冷たい視線で割って入った。
「あまり山頂の鬼どもに迎え撃ってくる余裕を与えたくない。一瞬の猶予が、囚われた私の仲間の命を奪うことになるんだぞ」
武官としてのイヌの正論と、遊撃の頭領としてのキジの正論。
どちらの言い分も正しく、血煙の燻る東の浜に再び別の張り詰めた緊迫感が走った、その時だった。
ガクガクガクッ!
突如として、二人の間に割って入るようにトトの華奢な身体が激しく痙攣した。
彼女の視界の焦点を結ばない瞳が、ありもしない「数時間後の空」を凝視し、激しい過呼吸の合間からぶつ切りの神託を絞り出す。
「……二刻」
「姉上!?」
モモが瞬時に表情を引き締め、駆け寄ってその肩を支える。
「二刻、待って。……嵐。……野分、来る」
「野分、だと……? この快晴の空にか?」
キジが驚愕して、キラキラとまばゆく輝く瀬戸内の青空を見上げた。雲一つない穏やかな内海に、嵐が来るなど到底信じられない。
けれど、モモとイヌの顔からは一瞬で血の気が引いていた。大和の庵でハニヤスの謀反を完璧に言い当てた、あの絶対の『姫の眼』が、嘘を言うはずがないのだ。
「……ははっ、姉上の視がそう言うなら、間違いはないな」
モモは不敵に、しかし最高に信頼を込めて笑うと、刀を鞘へと収めた。
「健、姉上の言う通り二刻だ。兵たちを一度船陰に下げ、死ぬ気で休ませてやってくれ。キジ、お前の焦りも分かる。だが……大自然の野分が味方をしてくれるなら、わざわざ正々堂々と突っ込む必要はねえ。嵐が山頂の鬼どもの目を塞いだその瞬間が、俺たちの『最高の勝機』だ!」
モモが言い放つと、キジは腕を組んだまま、未だキラキラと輝くまばゆい青空を忌々しげに睨み据えた。
「本当に、来るというのか? あの巫女の言葉一つで、この快晴の海が地獄に変わると?」
「ああ、間違いないさ。何なら俺の首を掛けたっていい」
迷いのない、最高に不敵なモモの笑み。
キジはフン、と鼻を鳴らすと、ようやくその険しい肩の力を抜き、腰の短刀から細い指先を離した。
「……貴様がそこまで言うのなら――わかった。信じてやる」
キジは一歩前に出ると、大和の鈍重で巨大な軍船へと冷徹な視線を向けた。
「だが、本当に野分が来るというのなら、あの大和のデカブツでもタダでは済むまい。瀬戸内の嵐を舐めるなよ、港にそのまま繋いでおけば岩肌に叩きつけられて木っ端微塵だ」
「あ……。そりゃ困るな。大和に帰れなくなる」
モモが頭を掻いて苦笑いする。個の武勇は天下無双でも、船の管理という航海の現実にまでは頭が回っていなかったのだ。
「フン、抜けた将軍だ。……来い。温羅の奴らがこの港に築き上げた、あの強固な防波堤の内側まで船を案内してやる」
キジの先導のもと、大和の軍船は港を大きく回り込み、敵の水軍が頑強な石積みによって造り上げていた防波堤の懐へと滑り込んだ。
なるほど、これほど巨大な石組みの堤が海を遮っていれば、外の海がどれほど野分で荒れ狂おうとも、湾内の水面は驚くほど穏やかに保たれる。奪い取ったばかりの敵の遺産が、今度は大和のデカブツ船を護る最強の盾となったのだ。
「温羅の鬼どもも、存外やるものですな。悔しいですが、大和の港でも、これほどの石積みはそうそう出来ませぬ」
頑丈な防波堤を見上げ、イヌが武官としての素直な驚嘆と悔しさを滲ませる。
「へえ、健がそこまで言うなんて珍しいな。――よし、皆、上陸だ! 姉上の言う『二刻』の間に、死ぬ気で身体を休めろ!」
*
大和の戦船の甲板では、大和の兵たちと女木島の遊撃戦士たちとが、肩を並べて糒や干し肉に齧り付き、時に談笑すらしている。
そんな様子をモモは目を細めて見回すと、甲板の隅、少し離れた場所でキジが一人、糒を口にするのが見える。
キジは、糒を小さく千切っては啄むように小さな口に運ぶ。その姿が何故か、姉のトトと重なった。
「――なんだ? 何か用か?」
モモの視線に気づいたキジが、やや棘を含んでモモに問う。
「いや、思いのほか上品に食べるのだな、と」
「っ――!?」
キジの端正な顔が、一瞬にして林檎のように真っ赤に染まった。
慌てて糒を背後に隠し、周囲の荒々しい男たち(遊撃の仲間)の食べ方を真似るように、あえて乱暴に口を拭ってみせる。
「ば、バカを言うな! 私はこれが普通の食べ方だ! 大和の男どものように、犬みたいに飯にがっつかないだけだ!」
「ははっ、悪かったよ。怒るなって。ほら、そんなに怒ると喉が詰まるぞ」
モモは笑いながら、腰に下げていた大和の真水が入った水筒(水袋)を差し出した。
「ほれ、大和の美味い水だ。飲みなよ」
「……ふん。余計なお節介だ」
キジはぷいっと横を向いたが、糒で乾いた喉は限界だったのだろう。すぐに観念したようにモモの手から水筒をひったくると、ゴク、ゴク、と喉を鳴らして水を煽った。
その時、キジの軽甲冑の隙間から、日の光に透けるほどに白い、細い首筋が露わになる。大和の兵たちのような無骨な日焼けも、筋肉の隆起もない、あまりにも瑞々しく美しい「男」の首。
モモが不思議そうにそれを見つめていると、キジはぷはっ、と息を吐いて水筒を突き返してきた。
「大和の水は……存外、悪くないな」
少しだけ声音を柔らかくして微笑むキジ。その線の細い笑顔の破壊力は、男装の若武者というよりは、やはりどこか大和の神宮に仕える美しい巫女のようでもあった。
「それはそうと、本当に野分は来るのか? お前は自分の首を賭けたが、あれは安請け合いではないか?」
「来るさ。俺は姉上を信じているよ――ほら」
モモが、裏表のない笑顔のまま、静かに指先で天を指さした。
ヒュルッ、ヒュルルッ――!
まばゆい日の光に満ちていた東の浜に、突如として、生温かく湿った不気味な風の音が鳴り響いた。肌にまとわりつくような重い空気の狂い。
「っ――、本当に、野分が来るというのか……っ!?」
キジは驚愕に目を見開き、急速に黒雲に覆われて狂暴な牙を剥き始めた山頂を見上げた。それはまさに、大和の巫女が告げた通りの、世界の反転の始まりであった。
トトの予言どおり、野分――台風が訪れる。
モモたちはその嵐に紛れ、鬼たちを強襲する――!
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