女木島への航路
「私の本名は留玉臣。だが、この海の連中からは――そう、お前が言った通り『キジ』と呼ばれている」
キジはフッと傲慢な笑みを口元に戻すと、短刀の柄を親指でカチリと鳴らし、挑戦的な視線をモモへと突きつけた。
「さて、モモ。温羅の犬どもは消えた。……次は、お前たちが私の海の藻屑になる番か?」
その気迫に押され、思わず布都御魂の写しの柄に手を掛けるモモ。その隣ではイヌもまた、重盾をしっかと握り、臨戦態勢へと移っている。
一触即発――。
そう思われた次の瞬間だった。
「……おやめなさい、留玉臣」
鈴を転がすようなキジの声よりも、さらに低く、冷ややかな霊気をはらんだ声が甲板に響いた。
船倉の入り口から、白い麻の神衣をまとったトトが、静かに、しかし絶対的な存在感を放ちながら姿を現した。
「――チッ、大和の呪術師(巫女)か」
キジが忌々しげに目を細める。だが、トトはその焦点の合わない瞳を真っ直ぐにキジへと向け、音もなく歩み寄った。
「キジ。あなたが本当に私たちを沈めるつもりなら、私たちが激流に揉まれている間に、温羅の船ごと海の底へ沈めていたはず。それをしなかったのは……お前にも、私たちの力が必要だからではないかしら?」
「何だと……?」
キジの眉がピクリと跳ねる。トトは一歩も引かず、キジの身にまとった緑青の甲冑、その脇腹のあたりに微かに残る「古い斬り傷」と、彼女が率いてきた快速船の異様な少なさを、その『姫の眼』で静かに見抜いていた。
「あなたの本拠地――女木島は、すでに温羅の本隊によって占拠され、多くの仲間が囚われている。……違うかしら?」
その言葉が落ちた瞬間、キジの傲慢な笑みが完全に凍りついた。
図星だった。地元の人間しか知り得ないはずの瀬戸内の勢力図と、己の窮状を、大和から来たばかりの病弱な巫女に一瞬で見抜かれたのだ。キジの細い指先が、短刀の柄の上で微かに震える。
「……大和の女狐が。知った風な口を叩くな」
「狐ではありません、大和の巫女です」
トトは優しく微笑み、そして横に立つ弟の肩にそっと手を置いた。
「私たちは、温羅を討つために大和朝廷から派遣された西道将軍。あなたには、温羅に奪われた島と仲間を取り戻す武力と防壁が必要。私たちには、この先の海の道案内が必要。――お互いに、これ以上ない『取引』だとは思いませんか?」
「――!ああ、姉上の言うとおりだ。俺たちはこの先の道先案内人がいると心強い!だが、それを抜きにしても、キジ。そなたらの住処は取り戻してやりたい!」
一切の曇りのない眼で、モモはキジを見据える。
大和朝廷という冷徹な権力の都合ではなく、目の前で傷つき、家を奪われた者たちのために刃を振るう。
その混じり気のない純粋な義侠心こそ、少年がまとう「王の器」の輝きそのものだった。
「……は?」
キジは毒気を抜かれたように、あどけない声を漏らした。
これまで西の海で出会ってきた大和の役人や温羅の兵どもは、誰もが欲と打算で動く泥深い人間ばかりだった。しかし、目の前の少年将軍は、こちらの困窮を知るや否や、見返りすら度外視して「住処を取り戻してやりたい」と真っ直ぐに言い放ったのだ。
「皇子、またそのように割に合わんお人好しを……。まあ、それがあなた様の良いところでもあるのですがな」
イヌが呆れたようにため息をつきながらも、どこか誇らしげに重盾を引いて、臨戦態勢を解いた。
「大和の将軍というのは、皆お前のように正気を失っているのか?」
キジはふっと呆れたように笑うと、ようやく短刀から指を離した。
「……だが、そこの巫女の言う通りだ。背に腹は代えられん。我が根城たる女木島は、温羅の奇襲によって今や敵の牙城と化している。私だけの軍勢では、囚われた仲間を救い出すことすら叶わん」
キジは一歩前に出ると、緑青の甲冑を鳴らし、モモの目を真っ直ぐに見返した。
「モモと言ったか。私の島へ案内してやる。その代わり、温羅の鬼どもを蹴散らす力を貸せ」
「ああ、約束する。俺たちの刃と盾を、あんたの仲間のために使おう」
モモが不敵に笑い、右手を差し出す。
キジはその手を一瞬だけ見つめ、フッと唇を尖らせてから、その細い手でモモの手を強く握り返した。
キジという水先案内人を得たモモたち一行。
その前に、女木島を奪還する必要があった――。
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