卑の弥呼の幽世、台与の御世
狗奴国の黒き全軍を退けたはずの、豊国の実りの平野。
なれど、そこに響き渡るものは、勝利の勝鬨では無かった。ただ、沈みゆく日の不気味な薄暗がりのなか、この地が息の根を止められたかのような、寂然とした気配が平野を埋める。
日の神子の『隠よ』。
そのあまりにも重き大地の静けさの前に、大和と豊国の兵どもは、今度こそ魂からへし折られる。
「おのれ……っ! 我が命に代えても、斎王様をお護りするはずであったのに……ッ! これでは、某は一体何のために大和の剣を引き抜いてきたのだ……っ!!」
その貌を涙と血で真っ赤に染めたカンナビが、己の拳を地面に突き立てて咽ぶ。
長柄を砂へと落としたワニも、その場に呆然と項垂れて立ち尽くす。
「卑しき身の弥呼様が、身罷られた……」
「日を失った我らは、これから再び狗奴国の槍の束に踏み潰されるだけではないか」
新しき邪馬台の絵図に心を調えられたばかりの、その地の民や兵どもの間に、内側から、底割れぬ不安のざわめきが広がり始める。
せっかく完成を告げたはずの集いの理が、斎王様の死という絶望によって、内側から脆くも崩れかけようとする──そのとき。
だが、トヨだけは泣かなかった。いや、泣くことすら許されなかった。
底割れぬ不安のざわめきが広がり始めるのを前に、トヨは藍色の瞳を細め、降伏したばかりの現地の県主の胸元へと真っ直ぐに視線をぶつけた。
「県主。今すぐお前たちの国から、斎王様をお納めするための、最も尊き、重き石を切り出させなさい。斎王様を泥の上に寝かせておくようなことは、私が絶対に許さないよ」
トヨの言葉が、赫赫とした夕映えの平野を貫き、大和の兵どもや平伏していた者どもの魂をピシャリと射抜く。
──やがて、平野に重苦しい夜の静けさが降りる。
切り出された石の器の前、カンナビの震える手が、斎王様の白榡の衣の乱れをそっと調え、その胸元へ、大神実の剣を添える。
西国のすべての民が地面に深く額を擦りつけるなか、斎王様の亡き殻は静かに石の器の奥へと納められ、重き石の蓋が閉じられる。
この地から、大和の日の光が覆い隠された夜の底。
建立されゆく新たなるお社の奥で、トヨは一人、底割れぬ重みと孤独のなかに身を震わせる。
(……姉さまのような、本物の日の光の霊威など、私には無い……)
己の両手をじっと見つめながら、トヨは膝を抱きしめる。
誰もが、モモの底知れぬ霊威にひれ伏していただけなのだ。
斎王様を失い、明日にも再び狗奴国が攻め寄せてくるやも知れぬこの地の果てで、その写しではない、己自身の理を如何にして立て、この集いを護ればよいのか。
どれほど頭を巡らせても答えの出ぬ、若き長の泥臭き模索。
トヨがただ一人、石の器の傍らでじっと夜を明かした、そのとき。
東の空、山の端の向こうから静かに差し込んできた、新しき一日の光。
その清らかな光が、石の器の傍らに備えられていた一面の『銅鏡』の面へと、この上なく鋭く、烈烈に反射する。
トヨの藍色の瞳を、朝日の光が灼く。
その鏡を介して放たれるまばゆい輝きを目にしたとき、トヨの脳裏に、モモから託された理の真の姿が、静かに閃く。
日そのものを従える本物の生き神には、自分はなれない。
ならば、この『鏡』を以て日の光を写し、この地のすべてを調えてみせよう。
「……私は、決して呑まれはしないよ、姉さま……」
トヨはその銅鏡をその小さな手で静かに掴み上げると、未だ夜明けの静けさに沈む平野全体を貫ぬくような、無骨にして気高き聲音を放ち、ゆっくりと立ち上がる──。
──その明くる朝。
朝日の晴れ渡りゆく平野では、最高武官たるカンナビが、血の涙を拭って大和の剣を高く掲げ、声を張り上げている。
「集まれッ! 大和の兵ども、豊国の民よ、ことごとくこの広大な平野へと集まれッ! 斎王様を失い、魂から惑う不届き者どもよ、これより我が国の、新たなる平らけき世の絵図を示すッ!!」
その怒号に背中を押され、未だ底割れぬ不安に怯えていた大和の兵どもや豊国の民たちが、水を打ったように静まり返りながら、新たなるお社の前へと続々と集まっていく。
卑の弥呼を失ったまま静まり返る平野を、じりじりと埋め尽くしていく、息を呑むような数多の視線。
誰もが固唾を呑んで見つめるなか、建立されゆく新たなるお社の奥から、静かに、けれど揺るぎなき圧を伴って、一歩、また一歩と大地を踏みしめて姿を現したのは──。
姿を現したのは、泥に塗れた豊国の少女では無かった。
トヨは、モモに代わり白榡の衣を纏い、人々の前に立ち並ぶ。
その乱れなき純白の衣を纏った新しき女王の貌には、すべてを見据えたような、生き神としての霊威が宿る。
未だ主を失った絶望に惑い、地面に這いつくばっていた大和の兵どもやその地の民が、一斉にその御姿を仰ぎ見る──。
胸から提げた銅鏡が、光を映し、人々を照らし出す。
──っ!!!
東の空から昇りゆく朝日の光を、トヨの胸元の銅鏡が烈烈に反射させ、ひざまずく兵や民たちの視界を、黄金の光を以て丸ごと眩く染め上げる。
モモとは異なる理を以て、されど全く同じ王の貌を鏡の光の向こうに見たカンナビは、五体を激しく震わせて涙を流す。
(……斎王様の理が、トヨのなかに生きている……っ! 某の剣、これより先は新たなる日の神子のために捧げんッ!!)
長柄を拾い上げたワニが「けっ、とんでもねぇお姫様から、さらにとんでもねぇ女王様のお出ましじゃねぇかッ!」と不敵に嗤い、豊国の老県主もその老いたる血をぞくりと沸き立たせる。
ひざまずくすべての兵や民たちが息を呑むなか、トヨは黄金の朝日の光を弾く銅鏡を高く掲げ、その無骨にして気高き聲音を平野全体へと響かせる。
「我が名は台与。日の神子の理を継ぎ、この鏡の光を以て、この地のすべてを平らに調えよう」
トヨの言葉が、晴れ渡った朝の空へと無骨に響き渡る。
鏡の光が放つ黄金の輝きの前に、平野を侵していた惑いのざわめきは消え失せ、大和の兵どもも、豊国の民たちも、ただその圧倒的な理の前に息を呑む。
最高武官たるカンナビが真っ先にその剣を地へと突き立て、深く平伏する。長柄を構えていたワニが、そして豊国の老首長が地に平伏し、それに引きずられるように、攻め寄せていた狗奴国の兵どもすらもが、恐怖と畏怖のなかに武器を投げ出して平伏していく。
西国のすべてが、新しき女王の足元へと深く、深く平伏する。
大和の法から離れた、西国の新たなる集い。
言葉と鏡を以て、天下を平らに調える新しき国──『邪馬台国』の夜明けが、今、ここに幕を開ける。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
モモ(卑弥呼)の幽世(死)、そしてトヨ(台与)が新たな女王として君臨する、魏志倭人伝にも記される描写です。
ただ、モモからトヨへ引き継がれるための権威の象徴、伏線を張り忘れていまして。
「今から過去に伏線を張り直しに戻っても、後の祭りだ!」と頭を抱えました。
なので、このページ内で伏線を張り、そのまま回収させるという荒業!
すみません、完全に行き当たりばったりです。
大神実の剣を、という案もありましたが、これはモモの象徴(彦五十芹彦と、倭迹迹日百襲姫)であり、トヨへ引き継がれるのは何か違う、と思ったのですよ。
さて、次回が最終回となります。
最後までお付き合いくださいますよう、よろしくお願いいたします。




