日の復り、金鳶の再来
黄泉の底から這い出た冥き影が、日の神子を護るように、その背中を固める──。
天を突くが如き温羅の巨躯と、その横で凛として大和の白刃を構える彦五十芹彦命。
言葉を交わすことなど、そこには無かった。
ただ現世の理を根こそぎへし折るような不気味な静けさを纏い、二つの大いなる影は、じりじりと迫り来ていた狗奴国の黒き全軍をその眼光で睨み下ろす。
「……な、何だ、それは……っ! 死人の幻が、現世に立ち塞がるというのか……っ!」
防塁の最前で兵どもを率いていた狗奴国の長──『狗古智卑狗』の貌から、傲慢なる笑みが掻き消される。
見たこともない異形の霊威、そして吉備の地をかつて血で染め上げたあの荒ぶる鬼の気配の前に、敵の兵どもの足並みが目に見えて凍りつく。
「怯むなァッ!!」
狗古智卑狗は血走った両眼をひん剥き、その大喝を響かせた。
「日を失い、追い詰められた卑しき身の弥呼が仕掛けた、ただの怪しき業に過ぎぬ! いかに大きき影であろうが、我が狗奴国の重き鉄の波で、跡形もなく踏み潰してくれるわァッ!! 全軍、押し包めッ!!」
その怒号に背中を押され、くろがねの槍の束が一斉に唸りを上げ、二人の女王の喉元へと容赦なく牙を剥く。
その怒号に背中を押され、くろがねの槍の束が一斉に唸りを上げ、二人の女王の喉元へと容赦なく牙を剥く。
──そのとき。
温羅の大きな影が、手元に引き寄せた巨大な金棒を、ただ一文字に、狂暴なる熱気を以て横一線に薙ぎ払う──。
温羅の大きな影が振るった巨大な金棒が、一振りで、押し寄せる狗奴国の兵どもを防塁の砂ごとまとめて薙ぎ倒す。
それは、この世のいかなる者の力をも超えた、文字通りの『荒ぶる神』の威烈そのものであった。
「……ぬ、おおおぉぉっ!? 陣を立て直せ! 槍の束を重ねてあの巨躯を串刺しにせよッ!!」
狗奴国の長──狗古智卑狗が血反吐を吐くように声を張り上げる。
なれど、くろがねの槍の束が温羅へと一斉に突き立てられんとした、そのとき。その大きな影の横から、凛とした影が滑り込む。
大和の白刃を美しく閃かせた彦五十芹彦命が、日の失われた薄暗がりのなか、その刃を以て、敵の槍をことごとく挫き、薙ぎ伏せていく。
かつて吉備の地で血を流して刃を交え、共に黄泉の底へと消えたはずの、荒ぶる鬼と日の神子。
その二つの大いなる冥き影が、今は一言の言葉も交わすことなく、ただ二人の女王を護るように並び立ち、無言のまま、押し寄せる狗奴国の全軍を圧倒し、その前進を縫い止める。
「……へっ。大和の落ちこぼれだの、卑しき身の弥呼だの、随分と安っぽい偽りを並べてくれたじゃねぇか、狗奴国の野郎どもォッ!!」
その凄まじき霊威に、防塁を死守していた大和の兵どもの惑いが、狂暴なる勝鬨へとひっくり返る。
その貌を引き締めたカンナビが「退くなッ! 荒ぶる神々が我らの背中を固めているぞッ! 陣を保てッ!!」と大和の剣を掲げ、全軍を駆り立てる。
戦う前に心を縛り殺されたのは、大和ではない。
日の消失に勝ち誇っていたはずの、狗奴国の全軍の側であった。
彼らは、黄泉の底から這い出た影すらもその背後に従えて、現世の理のすべてを動かしてみせるモモの底知れぬ霊威の前に、今度こそ魂から震え上がり、その足を凍りつかせていく。
じりじりと押し返されていく、狗奴国の黒き鉄の波──。
──そのとき。
大きく欠けた黒き姿のまま、西の山際へと沈みゆく日の縁から──。
天を割り、平野の冥き影を鋭く引き裂くような、一条の清らかなる「日の光」が、大地へと烈烈に差し込んだ。
大地が再び赫赫とした夕映えの光に満たされゆく、そのとき。
トヨの隣に立ち並んでいたモモが、一歩、また一歩と大地を踏みしめて前へ進み出る。
白榡の衣を調えたモモの、生き神としての霊威が、そこに顕になる──。
モモはその小さな肉体の刻限を削るように、胸元に抱いていた『大神実の剣』を、西の空へと高く掲げる。
戻ってきた日の底知れぬ霊威を背に、この地のすべてへと容赦なく降り注ぐ夕映えの光。
それは、まるで始馭天下之天皇の、あの金の鵄が放つ輝きを以て、押し寄せていた狗奴国の黒き全軍の目を灼き、その魂を縛り、その動きをことごとく封じていく。
「……ば、化け物め……ッ! 日すらも自らの力で従えて、光を取り戻したというのか……っ!?」
防塁の最前で刃を凍らせていた狗奴国の長──『狗古智卑狗』が、狂おしき怒りとともに、その場に激しく震え上がる。
日を失った大和の犬どもと見下していたはずが、逆に「一度死んだ日を、現世へと蘇らせてみせた」生き神の現れを前に、狗奴国の兵どもは今度こそ魂を失い、武器を投げ出して、脆くも逃げ惑い始める。
役目を終えた彦五十芹彦命と温羅の二つの冥き影は、日の神子へと静かに視線を遺すと、再び音もなく黒煙のなかへと溶けるように消えゆく。
大和の日の神子が、その身の霊威を以て、この地を平定してみせた大いくさの終わり。
──なれど、その歓喜が平野に満ちようとした、まさにそのとき。
音もなく、モモの手から大神実の剣が力なく滑り落ち、地面へと突き刺さる。
日の光を放出しきったその小さな身体から、すべての力が抜け、モモの姿がゆっくりと傾く。
「姉さま──っ!!」
血相を変えて駆け寄ったトヨの細い腕のなかに、モモは静かに、力なく倒れ込む。
モモは薄れゆく意識のなかで、涙を流すトヨの頬に、そっと手を当てる。
あの日、誰もいない暗き石窟の夜、二人きりで交わしたあの約束。大和の法から離れた、西国の新たなる社の絵図──。
「……あとは、託しましたよ……」
モモは微かに微笑むと、トヨに抱かれながら、静かに、その目を閉じる。
平野に集う西国の民、そして大和と豊国の兵どもの叫びが、冥き夕暮れの空へと静かに響き渡る──。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
皆既日食、あるいは日没退食から再び日の光を取り戻したその場面。
ここを、神武天皇の東征、脛長彦との戦いに擬えてみました。
神武天皇は異名がいくつかあり、古事記では神倭伊波礼毘古命、日本書紀では神日本磐余彦天皇とも記されていますが、個人的に好きなのは始馭天下之天皇でして。
ですので、ここでは敢えて、この表現で記してみました。
さて、卑弥弓呼と狗古智卑狗を敗走させたモモですが、ついに倒れてしまいます。
次回、トヨにその遺志が受け継がれていきます。




