豊かなる平野、壮大なる謀
門をくぐった先、そこには未だ恐れと混乱に身を強張らせ、地面に平伏する兵たちや、そこに潜む民の群れが大地を埋めている。
そのひざまずく群れの中心、ただ一箇所だけ、大和の日の光の霊威に全身を激しく震わせながらも、異様な気位を纏って頭を垂れる老人の姿があった。
白髪交じりの髪を無造作に結い、乾いた麻の衣を纏うその男こそが、八握のようなただ武力のみを頼みとする狂暴な長とは異なる、この豊かな平野を永きにわたり治めてきた狡猾なる県主であった。
老県主は、地面に深く頭を垂れたまま、その歪んだ口元にうっすらと不敵な笑みを浮かべ、響き渡る低い声音を、直立するモモへと向けて放つ。
「……これはこれは、大和の高貴なる日の神子様。いや、此度は我が国の使者が無礼を働いた通り、恐るべき『卑しき身の弥呼』──『卑の弥呼』様とお呼びすべきでございますかな? 我ら宮処の防塁を戦わずして挫いた、その怪しき業の霊威、恐れ入るばかりにございまする」
表面上は平伏しながらも、大和の生き神を『卑しき身の弥呼』と呼び立ててみせる、老首長の消えぬ牙。
その言葉に、モモの隣に並び立つトヨは、その眼を鋭く細める。
トヨは一歩、また一歩と、白髪の老首長の鼻先へとゆっくり歩み出ると、一人の気高き長の貌となって言い放った。
「……さて。どうする、県主。それとも、まだそうやって姉さまの日の光を呼び立てて、国ごとすり潰されるのを待つかい?」
トヨは、自らの仕掛けた欺きをモモに反転され、地面に額を擦りつける老首長を、その鋭い眼で見下ろす。
県主は血走った両眼でトヨを、そしてその隣に佇むモモを仰ぎ見ると、もはや兵を動かす理のすべてを失ったことを知り、深く、重い溜息とともに静かに頭を垂れた。
「……まさか。我らはすでに門を開け放したのだ。これ以上の抵抗など能うはずもなかろう。──なれど、豊国の若き長よ。大軍を率いて我が国の防塁を奪い、我らをただ大和の配下として踏み躙るおつもりか。一体この平野に、何をもたらしに来られた」
それは、すでに門を開け放した老首長が、民の命と国の行く末を繋ぎ止めるために、トヨの覚悟の深さを測りにいった生々しい談らいであった。
トヨはそんな老首長の眼を正面から受け止めると、その眼の奥に底知れぬ静かな理をぎらつかせ、これからの国の行く末をその鼻先へと提示してみせる。
トヨはそう言い放つと、老首長の背後に広がる、どこまでも美しく実った広大な黄金の田──筑紫随一の実りの地を優しく見つめた。
「お前たちのこの豊かな平野から、米を奪って大和のみを富ませるような真似はしない。そうではないのだ、県主。大和の日の光の法と、吉備の鉄の炎。具体的にはその二つ、そしてこの平野の豊かな実り。それらすべてを一つに結びつけ、大和の法から離れた、西国で最も尊き集いの『新たな大きなお社』を、この広大な平野に建てるのさ」
「……それは、また。……ずいぶんと大きな謀でございますなぁ……」
地面に深く額を擦りつけたまま、老首長の低い声音が、水を打ったように静まり返った平野に深く重く響き渡る。
その血走った眼の奥に宿るのは、恐れではない。大和の目を眩まし、天下を丸ごと欺かんとする新しき国の壮大さに、その老いたる血がぞくりと沸き立つような、仄暗き愉悦であった。
「……我が国のすべて、その新しきお社の絵図のなかに、調えさせていただきましょう」
周囲にひれ伏していたこの地の民たちも、一斉に深く平伏し、新しき秩序のなかに調えられていく。
大和の兵どもと、豊国と筑紫の兵、そしてこの平野の民の気配が重なり合い、新しき集いの底割れぬ理が、静かにその輪を調えた。
戦うことなく、その地の防塁の門は開かれた。
大和の兵どもと、豊国と筑紫の兵が平野へと堂々と足を踏み入れ、新しきお社の基盤を調えるべく、その地に陣を構えていく。
──だが。その平穏が、わずかな月日を数えたときであった。
大和の日の神子が戦わずして実りの地を手に入れ、吉備の鉄を以て西国に新たなお社を建てようとしている──その大いなる謀の知らせは、博多湾の奥深く、大和の法を根こそぎ拒絶する古き大国へと、牙を剥く大義となって最速で届いていた。
ある日、水を打ったように静まり返っていた平野のただなかが、突如として底割れぬ重低音に震え始める。
地の境を護る八握の配下の物見が、血相を変えて砂煙を上げて駆け込んできた。
「狗奴国だ……っ!狗奴国の黒き波が、地の境を乗り越えて攻め寄せてくるぞッ!!」
「何だと……っ!?」
平伏していた八握がその貌を跳ね上げ、カンナビはすっと剣の柄に手をかける。ワニが長柄を構え直し、カメがその盾を以て一歩前へと進み出る。
「今度の奴らは八握の兵どもとは違う……ッ! 狗奴国の、あの本物の長『狗古智卑狗』が率いる、黒き鉄を纏った全軍が、この平野を本気で踏み潰しに攻め寄せてきてやがりますッ!!」
「何だと……っ!? 狗奴国の長みずから、大軍を率いて動き出したというのか……っ!」
「それだけじゃねぇ! その遥か後方には、大和の日の光を本気で呪い殺さんとする、狗奴国の王──『卑弥弓呼』の黒き影まで視えやがりましたッ!!」
物見の喉を掻きむしるような悲鳴が、この平野の空を切り裂いて不気味に木霊する。
興りかけた新しき集いの理を根こそぎ踏み潰さんと、筑紫の深部から動き出した、大国の全軍の襲来。
その地鳴りを聴きながらも、トヨの隣に立ち並ぶモモの双眸が、ただ静かに、不敵に細められる──。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
さて、土下座レベルで謝罪しなくてはなりません!
53話から「宮処」の地名を出してきたわけですが、この地名が生まれた背景には、この地に景行天皇が筑紫(九州)を平定するために西征された折、この豊国の豊かな平野に長らく滞在され、臨時の「行宮」を建てられたことに由来します。
この物語の、クライマックスまでのロードマップを再確認していたところ、その因果関係に矛盾が生じることが発覚したため、修正することにしました。
なので、本ページが投稿されたのちに、過去――53話以降の「宮処」の文字を、「豊国の実りの平野」へと修正していき、因果を調え直したいと思います。
ここまで読んでくださった皆さんには、ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします。




