県主の使い、不気味な噂
豊国の岩窟を出で、安全な海の道の鍵となる宮処の地へと向けて、巨万の兵どもが動き出そうとした、まさにその夜明けの刻であった。
広げられた絵図の前に立ち、真っ先に懸念を口にしたのは、将の顔となったカンナビである。
「……否。宮処へ向かうとて、海沿いの開けた道を漫然と進むなど正気の沙汰ではない。これほどの数の兵ども、進軍の隙を突かれれば取り返しのつかぬ大乱となる。あえて白い巨岩が乱立する峻険なる平尾台の山を越え、地形を盾として敵に悟られぬよう背後を取り、取り囲むべきであるわッ!」
厳格な戦の理を叩きつけるネコに対し、長柄を肩に担いだワニが、不敵な笑みを剥き出しにして鼻で嗤い飛ばす。
「へっ、これだから陸の堅物ネコは困るぜ。テメェはまだ、自分たちがわずかな手勢だと勘違いしてやがらぁ」
ワニは笑みを深くして、乱暴に絵図を指で叩いた。
「いいか、今の俺たちの後ろにいるのは、調えられた、あの黒き兵どもだ。ならば、周防灘の海沿いの道を果てまで真っ黒な帯のように埋め尽くして、大地を震わせて堂々と進んでみせろ」
ワニは両腕を大きく広げ、カンナビへ向けて獣の如くかざしてみせる。
「宮処の首長どもからすれば、海の向こうから逃げ場のない黒き鉄の波が押し寄せてくるのと同じ、これ以上ない脅しになるだろうがよぅ!」
山を盾とする陸の将と、海を味方にしてその黒き兵どもの波で圧殺せんとする海の長。
二人の戦士が、互いの譲れぬ戦の理をぶつけ合って火花を散らすその様子を、モモは愉しげに微笑みながら見守る。
「ふふっ。二人とも、この国を平らげるための頼もしい漢たちですね。──トヨ、其方にはどちらの路が『能うる』と視えていますか?」
トヨはその眼を獰猛にぎらつかせ、絵図の一箇所を指し示す。
「ネコ、山沿いの道は、思いのほか険しいのよ。この兵たちを率いて通るには、あまり向いていないかも」
平尾台の峻険な地形を冷静に言い当てたトヨの言葉に、モモが静かに声音を重ねる。
「ええ、トヨの言う通りですね。──ですから私たちは、ワニの言う通り海沿いの路を堂々と進みましょう。私たちが海沿いを真っ黒に埋め尽くして進んだ瞬間に、宮処の県主は腰を抜かして戦う気力を失う。戦う前に相手の心を挫いておく。それが、大和の日の光のやり方ですよ」
地を視通すトヨの眼と、人の心を挫くモモの先読み。
二人の神子による逃れ得ぬ理の絵図を前に、カンナビはその生真面目な貌をほんの少し悔しげに強張らせる。
すっと剣の柄から手を引くと、あきらめたように吐息を漏らした。
「……う、うむ。斎王様のみならず、トヨにまでことごとく先を読まれては、某の出る幕はないわ……っ」
「よし、決まりだァ! 野郎ども、豊国の実りの平野を恐怖の底へ叩き落としに行くぞッ!!」
ワニの勝鬨のような大音声とともに、調えられた黒き兵どもが、大地を文字通り震わせ、宮処へ向けて大進軍を開始する──。
それから数日ののち。
穏やかな周防灘の海沿いを真っ黒に埋め尽くして突き進む兵どもの足音は、ついに、安全な海の道の鍵となる豊国の実りの平野の境へと轟き渡る。
豊かな平野を背後に控えた豊国の実りの平野の防塁。
その頑強な木柵の向こうでは、豊国と筑紫の兵どもを従えて攻め寄せてきた大和の日の神子の、底知れぬ霊威の前に、現地の兵たちが武器を握る手を激しく震わせ、戦う前から気圧されていた。
二人の神子の狙い通り、その理は、戦う前から敵の心をことごとく挫いている。
豊かな平野を背後に控えた実りの平野の防塁。
その頑強な木柵の向こうでは、豊国と筑紫の兵どもを従えて攻め寄せてきた大和の日の神子の、底知れぬ霊威の前に、現地の兵たちが武器を握る手を激しく震わせ、戦う前から気圧されていた。
二人の神子の狙い通り、その理は、戦う前から敵の心をことごとく挫している。
──だが、その静寂を破り、木柵の奥から一人の男が姿を現す。
「……大和の日の神子様とお見受けする。宮処を統べる県主が使者である。これ以上の進軍を控え、まずは此方の談いに応じていただきたい」
木柵の門が重々しく開かれ、数人の手下を伴って進み出てきたのは、博多の王・八握のような狂暴な長とは異なる、極めて狡猾なる宮処の使者であった。
使者は、長柄を構えるワニや、将の顔となったカンナビの鋭い眼に冷や汗を流しながらも、一歩も引くまいとその細い目をぎらつかせる。
「ふむ。豊国の実りの平野の県主とやらも、少しは話の分かる老いぼれとみえる。我が斎王様の御前である、無礼のなきよう言葉を選べよ」
カンナビが大和の剣の柄に手をかけ、厳そかに使者をねじ伏せる。
だが、県主の使者はフッと不気味な笑みを浮かべると、モモへ向けて、あらかじめ周囲の国々へと流し始めていた、不気味な噂の刃を真っ直ぐに突き立てる。
「大和の兵たちが手勢を求めて豊国の山の者どもを従えたと聴き、どれほどの恐るべき生き神が来られるかと身構えてみれば……騙されるな。我らの耳には、すでに東の国から、確かなる噂が届いているのだ」
「……何だと?」
ワニが不敵な笑みを消し、長柄の刃を使者の喉元へと近付ける。
トヨもまた、その眼を獰猛に細める。
しかし、使者は退かない。
これこそが、大軍の威光を前にしてなお、彼らが大和の法を拒むために用意していた刃──日の神子の霊威を根本から叩き潰すための、言葉であった。
「東の国で戦に敗れ、行き場を失って西の果てへと流れ落ちてきた、不浄なる者。──卑しき身の、大和の弥呼」
使者は、大地を埋める兵どもに向かって、響き渡る大音声でその言葉を言い放つ。
「そのような、『卑の弥呼』などという落ちぶれた者に、我が豊国の実りの平野を渡すわけにはいかぬわッ!!」
その言葉が実りの平野の空に叩きつけられた瞬間、カンナビの顔から血の気が一気に引き、ワニの長柄が凄まじい殺気で震える。
──だが。
その緊迫のなか、トヨの隣に立ち並ぶモモの口元から、フッ、と、すべてを見透かしたような、愉しげな含み笑いが静かに響き渡る──。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
物語の完結(大いなる神話の結実)を見据え、第54話の幕が上がりました。
前半戦は、作者である僕とAIとが「平尾台の山を越えるべきか、海沿いを進むべきか」と頭を悩ませていたルート相談のファクトを、そのままカンナビとワニの「陸×海のプロの戦略戦」へとハメ込んでみました(笑)。
地を縛るトヨの有能さと、心をハメ殺すモモの先見。二人の神子による完璧な二段構えで進軍路がカチッと決まる流れ、書いていてとても頼もしかったです。
なれど、一気に場面が飛んだ豊国の実りの平野の最前線。
大軍の威光を前にしてなお、現地の老獪な使者が突きつけてきたのは、東の国から流されてきていた、日の神子のブランドを根本から叩き潰すための最悪の汚名(蔑称)でした。
──『卑の弥呼』。
歴史の教科書に刻まれたあの偉大なる女王の真名が、本作においては、まさかの「東の国で戦に敗れて流れ落ちてきた、卑しき身の大和の弥呼」という、敵からの最大級の侮辱のハッタリとして初めてモモの鼻先に叩きつけられたわけです。
カンナビやワニが凄まじい殺気を剥き出しにするなか、御簾の奥でフッと冷徹に微笑んだモモ。
彼女はこの汚い蔑称を、次話で一体どのような恐るべきハメ技(演出政治)として逆手に取り、西国すべての王(百たる王)へと君臨してみせるのか──。
次回、いよいよこの蔑称を巡る、筑紫編の真の政治サスペンスが炸裂いたします。
次回もお楽しみに!




