吉備への路、宮処への途
「……これが、其方の誇る無限の鉄ですか、八握」
モモは、自らの兵の下敷きとなり、泥まみれ、炭まみれになって這いつくばる博多の王を、冷徹に見下ろす。
「カンナビ、ワニ。……もう、剣を引いて構いません。あとはトヨ、豊国の長たる其方が、この哀れな野郎どもを、どう調えるかです」
日の神子は静かにそう告げると、隣に立つトヨへと、すべてを託すように微笑んだ──。
トヨは一歩、また一歩と、砂浜に這いつくばる八握の前へと歩み出る。
「……さて。どうする、八握」
トヨは、自らの兵たちの波に押し潰され、無様に呻く博多の王を、その澄んだ藍色の眼で冷徹に見下ろす。
さっきまでの年相応な少女のぶっきらぼうさは影を潜め、そこにあるのは、豊国のまつろわぬ民を統べる、一人の凛とした長の貌であった。
「俺を、俺を殺すか、トヨ……ッ! おのれ、大和の犬に成り下がったか……っ!」
八握は血走った両眼でトヨを睨みつけ、砂を噛みながら激しく呪詛を吐き出す。
だが、トヨはそんな八握の狂乱をフッと鼻で笑い飛ばすと、日の神子が指し示す東の海原──遥か瀬戸内海の先を見据え、その小さな唇から、これからの海の道の理を言い渡す。
「殺さないよ。そんな無駄なことはしない」
トヨはそう言い放つと、泥を舐める八握を見下ろしたまま、その背後にうずくまる筑紫の民たちへとゆっくり眼を向けた。
「──八握。お前たちが喉から手が出るほど欲しかった『本物の鉄』はね、海の向こうの滅びゆく漢の幻影なんかじゃないんだ。東の国、姉さまが通り抜けてきた吉備の国には、本物の黒鉄を叩き出す炎の業がある。姉さまは、その吉備の鉄の道を、この豊国へと開いてくれると言っているんだよ」
「なん、だと……ッ!?]
「出任せを! そもそも、穴戸はどうする! そこの大和の犬どもも、あの穴戸の海の底知れぬ恐ろしさは身に染みておろうがっ!」
八握は血走った両眼をひん剥き、砂浜をその太き拳で激しく叩いて怒鳴り散らす。
その必死の拒絶に、防塁のキワで剣を引いたばかりのカンナビやワニ、そしてカメの厳つい顔も、不意に険しく引き締まる。船旅の過酷さ、あの穴戸の海の凄まじさは、大和の漢たちの身にも、文字通り消えぬ恐れとして身に染みて刻まれているからだ。
激流の難所を越えての交易など、到底能うはずもない。
誰もが八握の突きつけた現地の限界の前に押し黙るなか──。
ただ静かに、すべてを見透かしたようなモモの聲音が響き渡る。
「八握。──誰が、あの穴戸の死の海を渡ると言いました?」
その場にいる漢たちが、息を呑んで主の言葉を待つ。
「安全な航路を得るために、私は最初から豊国の実りの平野を平らげておきたかった。しかし、それには手勢が足りなかった。ゆえに、まずは危険を冒してでも穴戸を超えて豊の国に入り、トヨや……其方たちの兵を、こうして平らげておく必要があったのですよ」
その瞬間、八握は言葉を失い、血走った両眼を見開いたまま動けなくなる。
大和の兵たちが、ただ当て所なく無謀な航海をして、偶然ここに上陸したのではない。
わずかな大和の兵だけでいきなり豊国の実りの平野の広大な地へと突っ込んでも、兵の数が足りずに取り囲まれ、自滅する。
だからこそ、あのすべてを根の国底の国へ引きずり込もうとする穴戸の死の海の激流を「命懸けの捨て石」として強行突破し、豊国のまつろわぬ民の群れ──自分たちの持つ手勢を最初の味方として丸ごと調えるために、この門司の波打ち際へと上陸してきたのである。
すべては次に豊国の実りの平野を平らげ、大和への安全な海の道を築くための、底知れぬ謀の歩みに過ぎなかった。
「……おいおい、日の神子様よぅ。そいつはいくら何でも、話が大きすぎやしねぇか……っ」
長柄の鉄矛を杖代わりに、ワニがその底知れぬ日の神子の謀の深さに背筋を震わせ、呆然と天を仰ぐ。
将の顔をしていたカンナビもまた、己の身に刻まれた穴戸の恐れすらも、すべてその歩みのなかに組み込まれていたのだと悟り、「……はっ。何という器……っ!」と、深い畏怖を湛えてその場に跪く。
抗えぬ格の違い。
そして、大和の恐れで脅されるのではなく、自分たちがこれから「吉備の本物の鉄」と「豊国の実りの平野の安全な航路」を結ぶ、新たな海の道の真ん中に立ち、その豊かさを運ぶ主になれるという、これ以上ない確かなる理。
「……わかった、わかったよ、トヨ。いや、大和の日の神子様……ッ! 俺たちの負けだ、この八握の命も、博多の炭の兵どもも、すべてその絵図のなかに組み込んでくだせぇ……っ!!」
八握は今度こそ強がりの呪詛をすべて剥ぎ取られ、砂浜に深く、深く額を擦りつけて涙を流して服従を誓う。
周囲で泥を舐めていた飢えた筑紫の民たちも、一斉に日の光の前に平伏し、一つの新たな大和の理のなかに調えられていく。
「ふふっ。よく言えましたね。──トヨ、これで、豊国の実りの平野を平らげるための本物の『手勢』が揃いましたよ」
モモの優しくも凛とした聲音に応じ、トヨは一文字の曇りもない笑みをモモへと向ける。
「ええ、行こう、姉さま。──豊国の兵ども、大和の兵たちよ! 鉄の刃を掲げよ、私たちの安全な国の道を築くために、次なる戦場──『豊国の実りの平野』へ向けて進軍を開始するッ!!」
トヨの気高き下知とともに、これまでわずかだった大和の手勢の背後に、調えられた豊国と筑紫の兵どもが並び立つ。
朝靄のすっかり晴れ渡った白日の下、大和の青銅の盾と、豊国の本物の鉄へと生まれ変わる刃が大地を埋め尽くし、豊国の実りの平野の平定へ向けて、大地を文字通り踏み鳴らす物々しい地鳴りとともに、堂々と大進軍を開始する──。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
さて、第48話で、門司に到着してから、宮処という案もあった、と思い返しながら「穴戸を超えた意味ねえええええええええ!!」と絶叫した作者でしたが。
ここで無理やり、理由づけしました!
じゃなかった、ちゃんと理由があったのですよ!
ほらほら!
……すみません、無理やり辻褄を合わせるために、もっともらしい理由をこじつけました。
手勢が足りないから、まずは危険を冒してでも穴戸を越えて豊国の兵(土蜘蛛や八握の質量)を平らげ、数万の味方として調えた上で、本命の『宮処』を平らげにいく。
自分でこじつけておいて何ですが、大和の日の神子の戦力逆算、話のスケールがデカすぎて作者も書いていて楽しかったです。
吉備の本物の鉄の技術と、宮処の安全な航路。
それらが結びつくことで、ただのハッタリだった炭の虚飾の邑が、名実ともに本物の鉄を操る、あらゆるものが実ったクニ──真の『豊国』へと生まれ変わる経済基盤がここに完成いたしました。
次回、いよいよ記念すべき第54話、物語の完結(大いなる結実)へ向けて、この大軍勢が宮処へどのような地鳴りを響かせるのか。
次回もお楽しみに!




