石窟の夜、女王の契り
不気味に黒光りする鉄の門をくぐり、豊国の土蜘蛛たちが割拠する、奥深き根城へと足を踏み入れた一行。
そんな大和の者たちを待ち受けていたのは、清らかな宮の佇まいとはその形も手触りも全く異なる、異形の景観であった。
頭上を覆うのは、天を突くような自然の巨岩の天井。壁面には無数の岩穴が穿たれ、いたるところで鍛冶の火床が真っ赤な火花を散らして、黒き鉄の匂いが朝靄とともに重く立ち込める。
それは、未だ神代の荒々しさをそのまま残した、まつろわぬ民の堅牢なる岩窟の砦──巨大な闇の胎内であった。
「……ほ、ほう。なかなかに物物しい岩屋であるな。……フ、フン、だが大和の武官たる我ら大和の兵どもの前には、いささかも恐るるに足らずだッ!」
陸の上に戻った瞬間から、「ここからは我らの本領である!」と大張り切りで胸を張っていたカンナビ。
だが、周囲を囲む藍色の刺青の戦士たちの剥き出しの殺気。そして、見たこともない鉄の砦の威容を前に、その厳つい肩が、じりじりと強張り始めていく。
(おいネコ、急に声が上ずってんぞ。矛を持つ手が震えてやがらぁ)
長柄の鉄矛を肩に担いだワニが、その堅物の狼狽ぶりをすぐさま見抜いて、可笑しそうに藍色の眼を細めて耳打ちする。
「ふ、不埒ものめッ! 私は日の神子様をお護りするために、四方に神聖なる警戒の目を光らせておるだけであるわ……っ!」
必死に真っ青な顔のまま胸を張るネコと、それを楽しげにからかうワニ。その背後で、カメが輿をその太き腕でしかと支えながら、静かに周囲を睨み据える。
──しかし、そんな漢たちの物々しい息遣いも、石の扉が一重隔てられることで、瞬く間に掻き消える。
原初の荒々しさを残す、不気味な石の祭殿の奥。長だけが入ることを許された薄暗い石室のなか、ついに輿の御簾が下ろされ、人目が完全に遮られた。
汗ばんだ白絹の衣を纏ったモモは、家臣たちの前で見せていた日の神子としての絶対の気位をようやく解き、小さな肩を激しく上下させて、ふたたび崩れるように伏せる。
「……はぁっ……!」
その身の苦しげな息遣いを、トヨの藍色の瞳が、すぐさま一息に射抜いていた。
「……やっぱり。大和の兵たちの前ではあんなに気高く『日の光』なんて『ハッタリ』を決めてみせていたのに。姉さま、本当はもう、立っているのすら苦しいくらい擦り切れているじゃないか」
トヨがむき出しの腕を震わせ、負け惜しみを強がるような不遜な笑みを浮かべた、まさにその刹那であった。
倒れ伏したまま、モモの口元にフッと、酷く静かで、すべてを見透かしたような日の神子としての微笑がそっと浮かぶ。
「おかしな事を言うのね。其方が私のように体を悪くしたとして、それをあの仲間たちに見せられるの?」
──ッ!
トヨは小さく息を呑み、言葉を失って立ち尽くした。
同じ目を宿す者だからこそ分かる、誰にも弱みを見せられぬ長を演じ続けねばならぬ王の孤独。
沈黙のなか、モモは汗ばんだ白絹の袖で息を調のえながら、その澄んだ瞳をトヨへと真っ直ぐに向けた。
「それで、其方の望み――この豊の国を平らげたい、そのために私の力を借りたい――そういうことね」
その言葉に、トヨは自らの内にあった「長」としての気位を静かにぎゅっと引き締め、一文字の曇りもない冴え冴えとした面持ちでモモを見つめ返す。
「はい。それはモモ様の、大和――大和王権の一人勝ちのなかで、少しでも力を分散させたいという願いにも能うると思うのです」
――ふふっ。
御簾のない石室のなかに、モモの、心からの愉しげな含み笑いが静かに響く。
目の前の少女は、ただの荒ぶる神気を持つ者ではない。
これからの西の果ての理を、自分と同じ深さで語ることのできる、底知れぬ聡き器である。
モモはそっと大神実の剣をその胸に抱きしめ、静かに言葉を重ねた。
「分かっているようね。でも、私には残された刻はあまり多くはない。すぐにでもこの豊の国の土蜘蛛達を平らげていかねばならないでしょう」
――ッ!
その言葉の裏に潜む、日の神子としての凄まじき宿命の灯。
トヨは小さく息を呑み、藍色の瞳を大きく揺らしながら、恐る恐る次の問いを紡ぎ出す。
「その後は、どうなさるのです?」
大和の日の光が消え去ったのち、この西の果てはどうなるのか。
モモはそんな少女の偽りなき震えを見つめ、いつもの、一人の少女としての、この上なく暖かで、慈愛に満ちた聲音で微笑みかける。
「傷つき、迷うことはありません。──其方に託そうと考えておりますよ」
その聲音に込められた、あまりにも巨大なる日の神子の信と、情の深さ。
大和の一人勝ちを阻まんと、知略の刃を研いで向き合っていたはずのトヨの胸中を、日の神子の底知れぬ霊威が跡形もなく打ち砕く。
「……モモ、姉様……っ」
トヨは息を吸うことすら忘れ、ただその藍色の瞳から溢れる涙を、拭おうともせず立ち尽くしていた──。
トヨの澄んだ藍色の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
長としての、神子としての強がりはもはや影もなかった。
トヨは腕の白い貝の腕輪を、激しく震わせる。
その小さな、けれど原初の神気を宿した両手で、モモの汗ばんだ手を、壊れものを包むように強く握り締める。
──そうして、二人の若き神子が魂の底で、真の姉妹として結ばれた、豊国の夜。
石窟の狭き窓の向こう、おどろおどろしくどす黒く淀んだ周防灘の、さらに海の先。
未だ大和の法の光が一筋も届かぬ筑紫の最果て──博多の海の口から、モモとトヨの『先読み』の眼をじりじりと灼くような、恐るべき地鳴りが響き始める。
大島の鳴門や穴戸の荒ぶる門、そして豊国の土蜘蛛など、ただの端がかりに過ぎなかったのだと言わんばかりの、真の『まつろわぬ巨大な邪悪』の影。
西の果てを調える本当の泥臭い戦場は、すぐそこまで牙を剥いて迫る──。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
皆さまの熱い応援に支えられ、今回無事に大台の第50話を迎えることができました。
古代における「土蜘蛛」は、蜘蛛の妖怪ではなく「大和朝廷に恭順しなかった在来の有力者」への蔑称でした。
彼らは山岳地帯や洞窟(石窟)を拠点とし、独自の文化や信仰、あるいは優れた鍛冶技術(鉱山技術)を持っていた集団だったと考えられています。
大分県内には、今でも彼らが籠もったとされる「鼠の石窟」の伝承地が数多く残されており、本編の「石の要塞」のビジュアルのベースとなっています。
しかし、そんな二人の神子の前に、筑紫の本当の深部──古代より人や船が博く集まる最果ての港、『博多』の湾口から、これまでの土蜘蛛の比ではない、真のまつろわぬ巨大な邪悪の地鳴りが響き始めます。
この時代における博多湾の周辺こそが、あの教科書にも必ず載っている漢委奴国王の金印が出土した、筑紫最強の巨大な大国『奴国』のまさに中心地そのものでした。
大台を越え、物語はいよいよ筑紫編の本番、そして邪馬台国の誕生を巡る、最もヒリついた政治サスペンスと手に汗握る大平定戦へと雪崩れ込んでいきます。
第51話からも、大和の日の光の旅路をどうぞよろしくお願いいたします。
次回もお楽しみに!




