姫の眼と、潮の目
「……皇子! 前方に船影! それも、一隻や二隻ではございません!」
見張りの兵の悲鳴のような叫び声が、遅れて甲板に響き渡る。
見れば、キラキラとまばゆく輝く海面の向こう、瀬戸内特有の複雑に入り組んだ島陰、さらには巨岩の死角から、黒々とした船影が次々と姿を現していく。
「これはまた、随分と派手なお出迎えだ」
モモは不敵な笑みを浮かべると、腰の『布都御魂の写し』の柄に手をかけ、臨戦態勢へと移る――。
――だが、その時。
島陰からの不意打ち(火矢の斉射)をイヌの重盾でギリギリ防ぎきったものの、大和の鈍重な軍船が、不慣れな瀬戸内の複雑な潮流に足をとられて完全に包囲されてしまったのは、まさにここからであった。
「大和のデカブツめ、海の藻屑となれェ!」
火矢の煙の向こうから、温羅の快速船団が狂暴な雄叫びを上げて一斉に距離を詰めてくる。逃げ場のない洋上、船乗りたちは恐怖でパニックに陥り、イヌが盾を構え直すのにも限界が近づいていた。
絶体絶命の窮地。しかし、モモの背後に立つトトの瞳は、まだ死んでいなかった。
彼女の視界の焦点を結ばない瞳が、激しく渦巻く足元の海、その『数手先』の未来の糸を凝視する。
――ガタガタガタッ!
激しく木床を鳴らし、トトの華奢な身体が震える。
彼女は荒い息を吐きながら、何もない狂暴な波の渦、その一点を指差した。
「……あと、十呼吸(数十秒)。……海の底が、ひっくり返る……」
「……モモ、舵を、右へ……あの尖った巨岩……、その、向こうへっ……!」
「なっ、正気か姫様! あんな岩場に突っ込んだら座礁して海の藻屑だ!!」
船乗りが悲鳴を上げる。一見すれば、敵の突撃の真っ只中に自ら突っ込むか、暗礁に激突するだけの自殺行為にしか見えない命令。
けれど、モモは不敵に、最高に愉しげに笑った。
「姉上の視が言ってるんだ、間違いないっ! イヌーーーーっ!舵を右に限界まで切れーーーっ!!」
「御意ッ! ――おおぉぉぉぉぉ!!」
イヌがその怪力を以て、大舵をへし折らんばかりに右へと回す。大和の軍船が、ギチギチと軋みを上げながら、狂暴な波の渦巻く巨岩の影へと滑り込んでいった。
――ズ、ズズズズゥゥンッ!!
船が影に入った、まさにその刹那であった。
それまでモモたちの船を阻んでいた波が、まるで生き物のように一瞬にして逆方向へと牙を剥いた。瀬戸内特有の猛烈な急流――「引き潮の反転」である。
トトの予知通り、大和の軍船は巨岩が波を遮る『安全な隙間』へと滑り込んで衝撃を免れた。しかし、勝利を確信して猛スピードで追撃してきた温羅の快速船団は、逃げ場を失っていた。
「な、なんだこの潮の引き方は……うわああぁぁぁぁっ!?」
突如として現れた巨大な渦潮に足をとられ、温羅の快速船が次々とバランスを崩していく。制御を失った船同士が激しく衝突し、木っ端微塵に砕け散る。包囲陣形は、わずか数秒で完全に崩壊した。
「は、ははっ。……本当に、海の底がひっくり返りやがった……」
モモは呆れ混じりの、けれど最高に愉快そうな笑い声を漏らした。
次の瞬間、混乱とパニックに陥った戦場の上空から、天を裂くような甲高い音が降り注いだ。
――ヒュオオオオオンッ!
それは、空間を震わせる圧倒的な音を伴った、一条の矢鳴り(嚆矢)。
矢は狂暴な風をまとって一直線に奔り、立ち往生していた温羅の先鋒船の帆柱を、爆音と共に一撃で叩き折った。
「な、何奴だ!?」
温羅の兵が怯える海域を、激流をまるで己の庭のように完璧に操りながら、一隻の快速船が矢のような速度で駆け抜けていく。
その船首に、仁王立ちになる影があった。
――ギラリ。
太陽の光を浴びて、その身にまとった甲冑が、緑青や紫、茜の混ざり合う、まるでクジャクの羽のような圧倒的な虹色の輝きを放つ。
そこにいたのは、長弓を構えた、息をのむほどに端正な顔立ちの若武者であった。
「大和の鈍重なデカブツ船に、瀬戸内の潮の目が読める奴がいるのか!? 面白い、温羅の犬どもを片付けるぞ!」
鈴を転がすような凛とした声が海に響く。
若武者が一瞥さえくれぬままに放たれた次の一矢が、別の敵船の操舵手を正確に射抜いた。
「助太刀感謝する! ――往くぞイヌ! 姉上の開いてくれたこの勝機、逃すなよっ!」
「はっ! このイヌ、どこまでもお供いたしますぞ!」
モモが『布都御魂の写し』を抜き放ち、白銀の刃がキラキラ輝く海に映える。
反撃の火蓋は、今まさに切って落とされた。
トトの予知によって九死に一生を得た一行!
そして現れた、煌びやかな甲冑姿の若武者は――!?
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