豊国の民、大和の日の神子
穴戸を抜けた早船の船団は、穴戸の先にほど近い波打ち際へと滑るように乗り上げていく。
ザザザ……と筑紫の砂浜へと船底が乗り上げる。
「やったぞ! ついに筑紫の大地へ上陸したぞ!」
「日の神子様、いやさかっ! 大和の光、いやさかっ!!」
御簾の向こうからは、死線を潜り抜けた大和の兵どもと海の民たちの、地鳴りのような歓声と勝鬨が海原へと響き渡る。
ワニもまた、長柄の鉄矛を担ぎ直して不敵に笑っている。
――だが。
そんな外のきらびやかな喜びの裏で、暗き輿のなかには、誰一人として知る由もない壮絶な静寂が満ちる。
「ふぅっ、ふうっ……」
人々の目から遮られたモモは、白絹の衣を汗ばませ、小さな体を震わせて、今なお伏せっている。家臣たちの手前、おくびにも出さなかったが、不慣れな船旅は、モモのからだをも深く蝕んでいた。
「斎王様、斎王様……っ! 某の 拙なきがゆえに……」
カンナビは白目を剥くほどの船酔いに耐え、そのからだを震わせながらも、我が主の限界の息遣いを確かに聴き取っていた。
己の拙なさに顔を歪め、溢れる涙を拭おうともせず、モモの背中をそっとさすり始める。
「日の神子様……。外の者たちには、この久良武が何一つ気付かせませぬ。今は、どうかお休みくだされ」
カメは、その大きな体を御簾の前に背を向けて巌の如く立ちはだかる。
外と内との間を隔てる、主の「弱さ」を絶対に誰にも覗かせないための、大和の『盾』として厳かに佇む。
己の背中をさすり始めるカンナビの手を、モモは汗ばんだ小さな手で、静かに、けれど強く握り締める。
その瞳には、身の苦しみなどいささかも感じさせぬ、底知れぬ『先読み』の光がぎらぎらと宿っていた。
「カンナビ……すぐに周りに兵を。間もなく囲まれますよ」
「――ッ!!」
カンナビはハッと息を呑み、瞬く間に大和の武官としての冷徹な顔へと引き締める。
「――ッ!! 御意……っ、カメ、斎王様をしかとお護りいたせ! 敵襲である、皆の者、斎王様の御前を固めよッ!!」
カンナビが輿から浜辺へと飛び出すと同時、船を寄せたばかりの船団のまわり、夜明けの不気味な朝靄の向こうから、無数の殺気が音もなく這い寄る。
現れたのは、顔や頑なな体に藍色の生々しい刺青を施し、異形の鉄の刃や弓を構えた、恐るべき群れ──。
大和の法を断固として拒み、この豊の山々や磯辺を根城にする、まつろわぬ猛き土着の民『豊の土蜘蛛』の兵どもであった。
「ちっ、穴戸の激流に気を取られてる隙に、山の土蜘蛛どもがここまで降りてきてやがったかよ! しかもあの刃……『鉄』だと……っ!?」
舳先で長柄の鉄矛を強く構え直したワニの顔から、さっきまでの笑みが消え失せる。
カンナビの鋭い下知に応じ、大和の兵どもが一斉に青銅の剣や大盾を構えるが、朝靄の向こうからじりじりと間合いを詰めてくる土蜘蛛の「恐るべき群れ」の数は、砂浜を埋め尽くさんばかりに膨れ上がる。
誰の指先が動いても、一息にして凄惨な血の海が広がる──そんな、これ以上ないほどに張り詰めた静寂のなかであった。
不気味にきらめく鉄の刃の波が、不意に、左右へと静かに割れる。
ザッ、ザッ、と砂を踏む、どこか頼りなげな足音が朝靄を揺らす。
大和の兵どもが息を呑み、盾の隙間から眼を凝らした、その先。
藍色の不気味な大人の戦士たちの間から進み出てきたのは、粗末な獣皮を纏い、むき出しの細い腕に原初的な貝の飾りをつけた、一人の年若き少女であった。
その瞳は、大和の軍勢への仇心ではなく、ただ真っ直ぐに、早船の奥に佇む輿の姿だけを凝視している。
少女は小さく息を呑むと、戦の気を綺麗に収めた澄んだ声で、モモへ向けて真っ直ぐに言挙げ(ことあげ)する。
「……穴戸の激流が、あの『十の息』でおのずから開くのを……お前は最初から『視て』合わせていたのか」
少女はむき出しの腕を震わせ、輿の御簾を見据える。
「豊の国の神々すらもひれ伏して道を平らげる、大和の日の神子。──お前が、真の『日の光』なのだね」
「ふ、ふ、ふっ――」
「不遜なる者」と怒鳴りたいカンナビであったが、少女の持つあやしい霊気が、それを押さえつける。
「カンナビ。私が直に向き合います」
「し、しかし!」
「案じずとも、あの娘に仇心はないわ」
モモは、汗ばんだ白絹の衣の乱れをそっと整えると、大和の日の神子としての絶対の威厳をその身に纏い、輿の御簾の向こうから、朝靄の少女へ向けて酷く静かに、けれど凛とした聲音を響かせる。
「それにしても、なかなか物々しい出迎えですね、トヨ」
――ッ!!
その瞬間、少女の藍色の瞳が、驚きによって大きく見開かれた。
名乗ってなどいない。
この豊国の者しか知るはずのない己の真名を、大和から来たばかりの日の神子は、御簾の奥から一息に、過ちなく射抜いてみせたのだ。
周囲を取り囲む『鉄』の戦士たちの間にも、目に見えぬ動揺の漣が走る。
大和の日の光の霊威を前に、朝靄の牙どもは息を潜め、ただ言葉を失っていく──。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
さて、筑紫へ辿り着いたモモたち一行。
イメージとしては、現在の門司港のあたりを想定しております。
ちなみに、当初の案には、宮処(現在の行橋市)もありました。
――が。
穴戸(関門海峡)を超えた意味ねええええええ!!!
ということで、和布刈の浜(門司)です。
さて、モモに真名を看破された少女――トヨですが、彼女の装飾品として、考古学的知見に基づき設定されています。
九州北部から周防灘周辺の弥生遺跡(広田遺跡や一本松遺跡など)からは、ゴホウラやイモガイといった南島(沖縄・奄美)産の高級な巻貝で作られた【貝輪(かいわ/南海産貝輪)】が大量に出土しています。
• 面白いことに、この貝輪は「大人の屈強な戦士」ではなく、なぜか「年若き少女(あるいは幼い子供・女性)」の腕に集中してはめられた状態で発掘されることが多いのです。
交易の利権、あるいは神の声を司る若き女性シャーマン(霊的権威)が、武力を持つ男たちを率いていたという歴史的検証に基づき、本文の流れとなりました。
さて、次回、モモとトヨの対話です。
どうぞ、お楽しみに!




