↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
47/60

穴戸の瀬戸、日の光

 大島の鳴門(なると)の比ではない凄まじい衝撃が、突如としてワニの早船(はやぶね)の船底を激しく突き上げた。

 周防灘(すおうなだ)の昏(くら)き海原を風の速さで駆け抜けた船団は、息を突く間もなく、筑紫の関(せき)──『穴の戸』の入り口へと肉薄する。


 前方を見れば、本州と九州が牙を剥くようにこれ以上ないほどに狭まり、一呼吸ごとに潮(しお)の流れがどよもして逆巻き、川のように荒れ狂う大渦の群れが、大口を開けて一行を丸ごと呑み込もうと待ち構える。

 普通の船ならば、瞬く間に岩壁に激突して跡形もなくなるであろう真の海の門――いや、根の国底の国へと呑み込まんとする、速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)の口、とでもいうべきか。


 だが、その荒ぶる海の震えを前に、大和(やまと)の気位(きぐらい)を支えるべき武官は、すでに物言わぬ抜け殻と化していた。


「ネコ殿ォォ! 息をいたせネコ殿ォォ! 穴の戸の荒ぶる門が始まる前に、御身の魂が先に黄泉(よみ)の国へ往(ゆ)いてしまわれるぞッ!」


 カメが鯨骨の鎧を軋(きし)ませ、その太き腕(うで)でカンナビの体を必死に抱きすくめていたが、大島の鳴門でなけなしの気位まで吐き出しきっていたカンナビは、すでに完全な白目を剥き、ぐったりとした抜け殻のようになって微動だにしない。


「ぶはははは! 一息(ひといき)で魂まで溶かしやがったか! カメ、その屍(しかばね)を海に叩き落とされぬよう、片腕で抱え込んでおけよ、ここからが本当の穴戸だァ!!」


 舳先(へさき)に立つワニは、長柄の鉄矛(てつほこ)を両手で強く握り締め、荒巻く波をからだ全体に浴びながら、ワニ――いや、彦深臣としての本当の牙を剥く。


「野郎どもッ! 潮の逆巻きに正面から突っ込むんじゃねぇ! 右に三分、波の頭(つら)を叩いて一気に駆け抜けるぞォ!!」


「「「おおおおおッ!!」」」


 ワニの鋭い下知に応じ、早船の舵を握る海の荒くれ者たちが、文字通り血の滲(にじ)むような怪力で舵木(かじき)を抑え込む。 船団はワニの手引き通り、荒狂う大渦の隙間を、まるで縫い針のように一寸の狂いもなく神速で滑り抜けていく──。


 だが。

 そんなワニたちの技(わざ)の冴えをもってすれば、何ら問題なく突破できるはずの、いかなる激流。 なれど、突如として海面が不気味に静まり返り、筑紫の敵が仕掛けた目に見えない呪縛の罠が、船の船底を、底から見えぬ手で掴(つか)まれた如く捉え始めていたのだ。


 経験があるがゆえに、ワニの手(て)が舵を握ったまま、一瞬だけ判断に迷う。

 ひと息、ふた息の間にめまぐるしく変わる潮の流れは、まるで壁、あるいは扉の如く、早船の行く手を阻(はば)んでいた。


(穴「戸」とは、よく言ったものね)


 モモは御簾(みす)の奥で、じっと眼(まなこ)を凝らした。


 ――そして、激しく揺れる輿(こし)のなかから、いつにないほど酷く静かで、けれど深い信頼に満ちた聲音(こわね)を響かせる。


「カンナビ。その身(からだ)の苦しみは、よく視(み)えています。ですが、ここで扉を開けるための儀を執り行います。支度を」


「うぶっ……いえ、ぎょ、御意にッ!」


 カメの太き腕(うて)のなかで完全な白目を剥(む)き、魂が黄泉(よみ)の国へと半分逝きかけていたはずのカンナビであったが、我が主(あるじ)からのその下知を聴くやいなや、大和の武官としての恐るべき忠誠(ちゅうせい)だけで、その魂をからだへと繋ぎ止めた。


 次の刹那(せつな)、穴戸の荒れ狂う波の音を圧(あっ)する、凄まじい声が放たれる。


「オオオオオオオ!」


 カンナビの魂の警蹕(けいひつ)。

 船に酔い、苦しんでいるとはとても思えぬその声とともに、カンナビは震える手(て)で輿(こし)の御簾(みす)を力強く巻き上げた。


 現れたその主(あるじ)の前に立ち塞(ふさ)がる穴戸の潮に負けじと、厳(おごそ)かな先払いの声が海原へ朗々と響き渡る。


 その警蹕(けいひつ)に呼応するように、モモもまた、凛(りん)とした声で木簡(もっかん)に記した歌を詠む。


『穴の戸の 岩門(いわと)をひらく 日の光 まつろわぬ海 平らけく往け』


 ひ、ふ、み、よ、い、む、な。


 モモは、心のうちで息を数える。

 十(と)の息ののちに潮の流れが変わる、その満ち引きの刹那(せつな)を見据えて。


 や、こ、と──。


 歌の結びとともに十(たらず)の息が満ちた、まさにその刹那。


 モモが大神実(オオカムヅミ)の剣を鞘(さや)から抜き、舳先(へさき)へとかざした。


 白刃に陽の光が当たり、それが海原を割っていく。

 雲の切れ間から差し込んだ真白(ましろ)な日の光が、モモが舳先で掲げたオオカムヅミの白刃に目も眩(くら)むほどに跳ね返り、鈍色の海原へと真っ直ぐに一条(ひとすじ)の光を引く。


 その光の刃に導かれるかのように、それまで船団の行く手を阻んでいた筑紫の黒き呪(しゅ)と穴戸の激流が、道を平(たい)らげるように凪(な)いでいき、厳(おごそ)かに『開いていく』。


 目の前で起こる神の験(しるし)に、ワニもカメも心が奪われかける。

 あまりに跳びぬけた日の光の霊威(れいい)の前に、海の王(おう)としての誇りさえも瞬く間に消し飛び、魂の底からの畏怖がせすじを駆け巡る。


 ――だが、ワニはすぐに気を取り直して、腹の底からの声を張り上げて下知をする。


「お前らァ! 日の神子様が抉(こ)じ開けた穴戸だァ! 突っ込めエェェェ!!」


「「「おおおおおおうッ!!!(地鳴り)」」」


 その怒号のような叫びに呼応し、早船(はやぶね)の舵を握る海の荒くれ者たちが、血が滲(にじ)むかのような力で舵木(かじき)を引き絞る。


 割れた海原、真白(ましろ)な日の光が導く一すじの「平らな光の道」へ向かって、ワニの早船の一団は風のように、一息(ひといき)に滑り込んでいく──。


 激流を踏み破り、船団が穴戸の荒ぶる門を抜け、潮煙(しおけむり)の向こうに穏やかな海原(うなばら)が広がり始めた、まさにその直後。


 さらり、と輿(こし)の御簾(みす)が下ろされ、人々の目から遮(さえぎ)られると、モモはその場に倒れ込む。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ!」


 家臣たちの手前、おくびにも出さなかったが、慣れない船旅は、モモのからだをも壊さんとしていた。

 胸元に大神実(オオカムヅミ)の剣を強く抱きしめたまま、白絹(しろきぬ)の衣を汗で濡らし、激しく肩を上下させる。


 ――だが。

 そんな御簾(みす)の中の壮絶な息遣いなど、外の者たちは誰一人として知る由もない。


「やったぞ、穴戸を抜けたァァーーーッ!!」

「日の神子様、いやさかッ! 大和の光、いやさかッ!!」


 御簾(みす)の外からは、死線を潜り抜けた大和の兵どもと海の民たちの、地鳴りのような歓声と勝鬨(かちどき)が海原(うなばら)へと響き渡る。


 舳先(へさき)に立つワニも、カンナビを抱え込むカメも、日の光の験(しるし)によって荒ぶる門が割れた験(しるし)への興奮で、歓喜にその瞳をぎらつかせている。


 激しき海の道を越え、白波の晴れゆく彼方に、夕日の光をまといて雄々しくそびえ立つ筑紫の島が、その雄大なる姿を現す。


 これも神々の手引きかと、誰もがその新たなる国の始まりに思わず声をこぼすなか。

 ただ一人、天下(あめのした)の定めを背負った日の神子だけが、暗き御簾(みす)の奥で静かに息をひそめ続けていたのだった――。

 ここまでお読みくださり、ありがとうございます。

 大島の鳴門から、今度は穴戸を超える場面です。


 「穴戸」とは、関門の瀬戸、あるいは関門海峡、そして壇ノ浦といった響きが皆さんには馴染があるのでは、と思います。

 そしてこの「穴戸」、山口県の旧い呼び名の「長門」の語源にもなったと言われています。

 

 こうやって見ると、瀬戸内海という言葉に含まれる「瀬戸」とは、海峡に次ぐ海峡、海の難所だらけだった場所、というふうにも取れるように感じますね。

 瀬戸とは、「瀬の戸」――つまり、潮が扉のように、その潮流によって開けたり閉じたりを繰り返す、そういった状況を表した言葉だったのだろう、と推察します。


 そうした考察を踏まえたうえで、神道の儀式の一つである「御扉開きの儀」に擬えた場面を差し挟んでみました。


 さて、物語はいよいよ筑紫。

 モモたち一行と、まつろわぬ民たちとの、本当の戦いへと向かいます。


 どうぞ、お楽しみに!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。