穴戸の瀬戸、日の光
大島の鳴門の比ではない凄まじい衝撃が、突如としてワニの早船の船底を激しく突き上げた。
周防灘の昏き海原を風の速さで駆け抜けた船団は、息を突く間もなく、筑紫の関──『穴の戸』の入り口へと肉薄する。
前方を見れば、本州と九州が牙を剥くようにこれ以上ないほどに狭まり、一呼吸ごとに潮の流れがどよもして逆巻き、川のように荒れ狂う大渦の群れが、大口を開けて一行を丸ごと呑み込もうと待ち構える。
普通の船ならば、瞬く間に岩壁に激突して跡形もなくなるであろう真の海の門――いや、根の国底の国へと呑み込まんとする、速秋津比売神の口、とでもいうべきか。
だが、その荒ぶる海の震えを前に、大和の気位を支えるべき武官は、すでに物言わぬ抜け殻と化していた。
「ネコ殿ォォ! 息をいたせネコ殿ォォ! 穴の戸の荒ぶる門が始まる前に、御身の魂が先に黄泉の国へ往いてしまわれるぞッ!」
カメが鯨骨の鎧を軋ませ、その太き腕でカンナビの体を必死に抱きすくめていたが、大島の鳴門でなけなしの気位まで吐き出しきっていたカンナビは、すでに完全な白目を剥き、ぐったりとした抜け殻のようになって微動だにしない。
「ぶはははは! 一息で魂まで溶かしやがったか! カメ、その屍を海に叩き落とされぬよう、片腕で抱え込んでおけよ、ここからが本当の穴戸だァ!!」
舳先に立つワニは、長柄の鉄矛を両手で強く握り締め、荒巻く波をからだ全体に浴びながら、ワニ――いや、彦深臣としての本当の牙を剥く。
「野郎どもッ! 潮の逆巻きに正面から突っ込むんじゃねぇ! 右に三分、波の頭を叩いて一気に駆け抜けるぞォ!!」
「「「おおおおおッ!!」」」
ワニの鋭い下知に応じ、早船の舵を握る海の荒くれ者たちが、文字通り血の滲むような怪力で舵木を抑え込む。 船団はワニの手引き通り、荒狂う大渦の隙間を、まるで縫い針のように一寸の狂いもなく神速で滑り抜けていく──。
だが。
そんなワニたちの技の冴えをもってすれば、何ら問題なく突破できるはずの、いかなる激流。 なれど、突如として海面が不気味に静まり返り、筑紫の敵が仕掛けた目に見えない呪縛の罠が、船の船底を、底から見えぬ手で掴まれた如く捉え始めていたのだ。
経験があるがゆえに、ワニの手が舵を握ったまま、一瞬だけ判断に迷う。
ひと息、ふた息の間にめまぐるしく変わる潮の流れは、まるで壁、あるいは扉の如く、早船の行く手を阻んでいた。
(穴「戸」とは、よく言ったものね)
モモは御簾の奥で、じっと眼を凝らした。
――そして、激しく揺れる輿のなかから、いつにないほど酷く静かで、けれど深い信頼に満ちた聲音を響かせる。
「カンナビ。その身の苦しみは、よく視えています。ですが、ここで扉を開けるための儀を執り行います。支度を」
「うぶっ……いえ、ぎょ、御意にッ!」
カメの太き腕のなかで完全な白目を剥き、魂が黄泉の国へと半分逝きかけていたはずのカンナビであったが、我が主からのその下知を聴くやいなや、大和の武官としての恐るべき忠誠だけで、その魂をからだへと繋ぎ止めた。
次の刹那、穴戸の荒れ狂う波の音を圧する、凄まじい声が放たれる。
「オオオオオオオ!」
カンナビの魂の警蹕。
船に酔い、苦しんでいるとはとても思えぬその声とともに、カンナビは震える手で輿の御簾を力強く巻き上げた。
現れたその主の前に立ち塞がる穴戸の潮に負けじと、厳かな先払いの声が海原へ朗々と響き渡る。
その警蹕に呼応するように、モモもまた、凛とした声で木簡に記した歌を詠む。
『穴の戸の 岩門をひらく 日の光 まつろわぬ海 平らけく往け』
ひ、ふ、み、よ、い、む、な。
モモは、心のうちで息を数える。
十の息ののちに潮の流れが変わる、その満ち引きの刹那を見据えて。
や、こ、と──。
歌の結びとともに十の息が満ちた、まさにその刹那。
モモが大神実の剣を鞘から抜き、舳先へとかざした。
白刃に陽の光が当たり、それが海原を割っていく。
雲の切れ間から差し込んだ真白な日の光が、モモが舳先で掲げたオオカムヅミの白刃に目も眩むほどに跳ね返り、鈍色の海原へと真っ直ぐに一条の光を引く。
その光の刃に導かれるかのように、それまで船団の行く手を阻んでいた筑紫の黒き呪と穴戸の激流が、道を平らげるように凪いでいき、厳かに『開いていく』。
目の前で起こる神の験に、ワニもカメも心が奪われかける。
あまりに跳びぬけた日の光の霊威の前に、海の王としての誇りさえも瞬く間に消し飛び、魂の底からの畏怖がせすじを駆け巡る。
――だが、ワニはすぐに気を取り直して、腹の底からの声を張り上げて下知をする。
「お前らァ! 日の神子様が抉じ開けた穴戸だァ! 突っ込めエェェェ!!」
「「「おおおおおおうッ!!!(地鳴り)」」」
その怒号のような叫びに呼応し、早船の舵を握る海の荒くれ者たちが、血が滲むかのような力で舵木を引き絞る。
割れた海原、真白な日の光が導く一すじの「平らな光の道」へ向かって、ワニの早船の一団は風のように、一息に滑り込んでいく──。
激流を踏み破り、船団が穴戸の荒ぶる門を抜け、潮煙の向こうに穏やかな海原が広がり始めた、まさにその直後。
さらり、と輿の御簾が下ろされ、人々の目から遮られると、モモはその場に倒れ込む。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ!」
家臣たちの手前、おくびにも出さなかったが、慣れない船旅は、モモのからだをも壊さんとしていた。
胸元に大神実の剣を強く抱きしめたまま、白絹の衣を汗で濡らし、激しく肩を上下させる。
――だが。
そんな御簾の中の壮絶な息遣いなど、外の者たちは誰一人として知る由もない。
「やったぞ、穴戸を抜けたァァーーーッ!!」
「日の神子様、いやさかッ! 大和の光、いやさかッ!!」
御簾の外からは、死線を潜り抜けた大和の兵どもと海の民たちの、地鳴りのような歓声と勝鬨が海原へと響き渡る。
舳先に立つワニも、カンナビを抱え込むカメも、日の光の験によって荒ぶる門が割れた験への興奮で、歓喜にその瞳をぎらつかせている。
激しき海の道を越え、白波の晴れゆく彼方に、夕日の光をまといて雄々しくそびえ立つ筑紫の島が、その雄大なる姿を現す。
これも神々の手引きかと、誰もがその新たなる国の始まりに思わず声をこぼすなか。
ただ一人、天下の定めを背負った日の神子だけが、暗き御簾の奥で静かに息をひそめ続けていたのだった――。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
大島の鳴門から、今度は穴戸を超える場面です。
「穴戸」とは、関門の瀬戸、あるいは関門海峡、そして壇ノ浦といった響きが皆さんには馴染があるのでは、と思います。
そしてこの「穴戸」、山口県の旧い呼び名の「長門」の語源にもなったと言われています。
こうやって見ると、瀬戸内海という言葉に含まれる「瀬戸」とは、海峡に次ぐ海峡、海の難所だらけだった場所、というふうにも取れるように感じますね。
瀬戸とは、「瀬の戸」――つまり、潮が扉のように、その潮流によって開けたり閉じたりを繰り返す、そういった状況を表した言葉だったのだろう、と推察します。
そうした考察を踏まえたうえで、神道の儀式の一つである「御扉開きの儀」に擬えた場面を差し挟んでみました。
さて、物語はいよいよ筑紫。
モモたち一行と、まつろわぬ民たちとの、本当の戦いへと向かいます。
どうぞ、お楽しみに!




