阿岐の海原、大島の鳴門
大和の正統なる日の神子を乗せた、ワニの船団。
朝日に輝く阿岐の海原を、風の如き速さで滑り出していく。
瀬戸内の複雑な潮や、怪しげな風の変わり目を、深臣は長柄の鉄矛で細かく手引きし、一分の狂いもなくその路を拓く。
海の荒くれ者たちが見せる群を抜くまでの技の冴えに、大和の兵どもの間からも、思わず声がこぼれていた。
――だが、その船のなかで、ただ一人、大和の気位を跡形もなく崩している武官がいた。
「う、ぐ、おお……っ……」
船縁にしがみつき、その厳つい顔をいまや真っ青に変えて激しくよろめいているのは、カンナビだ。
「おう、ネコどの、大丈夫……じゃなさそうだな」
様子を見にきた大和の兵どもから、もはや畏れ敬う心よりも哀れみが勝った声で労ってもらっているが、今のカンナビにはそれを怒鳴りつける気力すら残っていない。
陸の上であれほど気位高く三女王を言い伏せていた大和の武官は、瀬戸内の荒ぶる揺れの前に、完全に形無しになっていた。
「けっ、ネコよぉ! 陸であれだけ偉そうに吠えといて、この程度の波で腹ん中のものひっくり返してんじゃねぇよ!」
舳先で舵を握るワニが、愉快そうに大笑いしながら声をかけてくる。
その荒ぶる海の洗礼に、カンナビは白目を剥きそうになりながらも、船縁をギリリと掴んで掠れた声を絞り出した。
「そ、某をネコと……呼ぶ……っ」
大和の、中枢たる武官に向かって――と言い募ろうとした、まさにその刹那。
瀬戸内の凶悪な波のうねりが、ドスンと船底を突き上げる。
「うぶぅえええええぇぇろろろろおろろおろ」
大和の誇りも、武官の気位も、腹ん中のものごと阿岐の海原へとすべてぶちまけられる。
「ぶはははは! 見事にやりやがったなネコよぉ! ほら、海を汚すんじゃねぇよ!」
ワニが手を叩いて大笑いするなか、カンナビはもはや船縁からぐったりと身を乗り出し、ピクリとも動かなくなった。
「ネコ殿……! しっかりいたせ、ネコ殿!」
その横で大男のカメが慌てて駆け寄り、その太い腕でカンナビの体を抱き起こす。
「すまぬ、ネコ殿。我らが阿岐の海が、不慣れな大和の御身には凶悪すぎた。ほら、これを腹に強く巻くのだ。遠くの動かぬ島を見て、息を深く吸え」
「だ、大和の……中枢たる武官に向かって、ネコ、ネコと……う、ぐおっ」
わずかに残った気位を振り絞ったカンナビの反論も、容赦なく押し寄せる次の波の揺れによって、跡形もなく掻き消されていく。
そんな不揃いな三人のやり取りを、モモは御簾の中から、いつものトトとしての温かい呆れを交えた瞳で見守っていた。
島々に守られた穏やかな『阿岐の海』の西の果て――島と島が牙を剥くようにこれ以上ないほどに狭まり、まるで川のように激しい潮の流れが渦巻く最凶の難所『大島の鳴門』へと差し掛かった、まさにその時。
「おいカメ! いつまで背中さすってやがる、潮目が変わりやがった。……波の底で何かがうごめいてやがる!」
舳先に立つワニの声から、一瞬で笑みが消え失せた。
長柄の鉄矛を海原の果てへと向ける。
カメもまた、ぐったりとしたカンナビの背をさする手を止め、鯨骨の鎧を軋ませて海の先を睨み据える。
そこは、ワニの群を抜く技の冴えをもってすれば、何ら問題なく突破できるはずの、いかなる激流。
なれど、突如として海面が不気味に静まり返り、筑紫の敵が仕掛けた目に見えない呪縛の罠が、船の船底を、底から見えぬ手で掴まれた如く捉え始めていたのだ。
経験があるがゆえに、ワニの手が舵を握ったまま、一瞬だけ判断に迷う。
――その刹那。
コォン。
御簾の奥から小さく、それでいて周囲に響く銅鐸の音。
そして大神実の剣を抱くモモの、鈴の音のような聲音が響く。
「ワニ、恐れることはありません。三息ののち、冷たい北の風が海を押し返します。それに舳先を預けなさい」
モモが告げたのは、潮の読みではない。
筑紫の呪いを打ち破るための筑紫の呪いを打ち破るための『天の兆しと、風の満ち引き』。
それを聴いたワニは、ゾクゾクとする畏怖を不敵な笑みへと変え、「へっ! 未来が視えてるありゃあ反則だろ! ……だが、その風に乗せてみせるのがオレの腕だァ! カメ、日の神子様の言う通り三息で舵を左にぶち込めッ!!」
「御意……っ!」
三、二、一――!
一分の狂いもなく吹き付けた北風をワニが帆に余すことなく捉え、カメが舵を固定する。
船は不気味な呪いの渦を見事に跳ね除け、引きちぎらんばかりの勢いをもって激流の隙間を神速で駆け抜けていく。
「うおおおおおお、腹、はらのなかがああああうぅええええ」
引きちぎらんばかりの横揺れと凄まじいうねりのなか、カンナビはなけなしの気位すらも吐き出し、白目を剥きながら掠れた声を絞り出した。
「……波の上に……浮寝せし宵……あど思へか……心悲しく……夢に、見え、つる……うぶぅえっ」
「ぶはははは! 瀕死のなかでご立派な歌を詠んでんじゃねぇよネコよぉ! 耐えろ、ここを抜けりゃあ筑紫はもう目の前だァ!!」
ワニの大笑いとカンナビの世に希なる絶唱を乗せ、船団は大島の鳴門を風のような速さで踏み破っていく――。
大島の鳴門を疾風のごとく駆け抜けた船団の眼前に、それまでの穏やかな阿岐の海原は、もはや影すら見えない。
行く手を遮るのは、周防灘の深く昏い底から湧き上がる、まるで古き重き墨を流し込んだかのように、どす黒く淀んだ濁流だ。
海原の息吹は、いつしか肌を刺す冷たき風へと変わり、筑紫の奥底で大和の法を拒むようにうごめく、目に映らぬ「まつろわぬ呪」の不気味な気配を、重く、生温かく孕み始める。
どす黒い濁流の向こう、日の沈む果てには、この海のさらに最果てにして、筑紫の関たる『穴の戸』が牙を剥いて控えている。
御簾の奥で、モモはそっと胸元の大神実の剣を握りしめ、その瞳を厳しく細めた。
「……視えてきましたね」
モモの静かな、けれど覇気に満ちた御言が船上に響く。
潮煙の向こう、鈍色の雲が垂れ込める海原の果てに、ついに西の国を平らげるための目指す果ての地――「筑紫の大地」が、不気味な黒い影となってその姿を現し始める。
「……おい、ネコ。まだ腹ん中から出すものが残ってるなら、今のうちにすべて絞り出しておきな。次の瀬戸は、大島の鳴門の比じゃねぇぞ。真の荒ぶる海の門──『穴の戸』だ」
ワニの非情なる手引きの言葉に、カメの腕の中でかろうじて息を吹き返しかけていたカンナビは、今度こそ完全に事切れたように白目を剥き、その厳つい頭をがっくりと落としたのだった――。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
ワニ、カメという心強い仲間を加え、モモたち大和の一行は筑紫へと向かいます。
途中、「大島の鳴門」と呼ばれる難所を通ることとなります。
山口県は柳井市と、屋代島(周防大島)との間に広がる、大畠の瀬戸と呼ばれる箇所です。
古くは文中でも表現したとおり「大島の鳴門」と呼ばれ、万葉集にも『これやこの 名に負ふ鳴門の 渦潮に 玉藻刈るとふ 海人娘子ども(田辺秋庭)』など、数多の歌が詠まれた場所でもあります。
安芸灘から周防灘への最短ルートだったために、百済への往きはこのルートを通ったそうですが、帰りは周防灘から伊予灘、そして安芸灘へと向かうルートが選ばれたとか。
……それだけ、このルートに懲りたということなんでしょうね。
前回、「次回から筑紫へ渡ってるけど、海上のシーンになるかも」と言ってました。
……もうちょっとだけ(海上回)続くんじゃ……(げんなり)
次回もお楽しみに!




