久良武の盾、深臣の矛
さっきまで自分たちが命懸けで奪い合った、前線の砦の小島が。
なゐ(・・)の凄まじい震動によって、地滑りを起こして山ごと海の底へと完全に崩落し、消え失せていく。
海を挟んだ遥か向こうで起きたその天変地異を前に、高殿の中には、凍りついたような完全な静寂。
三女王は完全に気位をへし折られ、床に平伏して震えている。
その静寂を破るように、広間の入り口から、重く濡れた足音が響く。
現れたのは、大和の兵たちに囲まれた、一人の巨漢であった。
身に纏う鯨骨の鎧は潮水に濡れそぼり、むき出しの頑強な両腕には藍色の生々しい刺青が躍っている。その瞳には怨嗟や敵意ではなく、言葉を失うほどの圧倒的な「畏怖」がぎらぎらと宿っていた。
男は、カンナビやワニの鋭い視線を浴びながらも、輿の前へと自らの足で堂々と進み出ると、地鳴りのような重い音を立ててその場に両膝を突き、額を床へと擦り付ける。
「……大和の日の神子よ。我が誇る鉄壁の盾の列も、天のなゐの前には無力であった。……なれど」
男はこぶしを床に握り締め、震える声を絞り出す。
「もし、あの底なしの『泥濘』に我が兵たちを叩き落とされ、足を止められていなければ……。俺たちは今頃、あの砦の島もろとも生き埋めになり、全員が海の底へ沈んでいた。そればかりか、島が沈んだ直後、溺れかけていた我が兵どもを、そこなワニの船が一人残らず引き上げて救い出してくれたのだ」
男はバッと顔を跳ね上げると、御簾を見据えた。
「その船乗りたちに感謝を伝えようとしたところ、『感謝なら、大和の日の神子様へ』と、誰もが受け入れてくれぬ。貴女様が『全員を船に乗せ、沖合で控えさせておきなさい』と事前に下した御下知こそが、結果的に吾らの命をも完璧に救い上げたと。……ゆえに、こうして不敬を承知で、直接頭を下げに参りました!」
男の、魂からの叫びが高殿の広間に響き渡る。
カンナビは剣の柄に手をかけた姿勢のまま、一歩前に進み出ると、努めて厳めしい顔つきでその巨漢を鋭く見下ろした。
「――頭を上げよ。斎王様の御前である。……不敬を覚悟で進み出たからには、まずはその真名を名乗れ」
カンナビの厳かな誰何の言葉。
床に額を伏せていた巨漢は、静かに上体を起こすと、大和の武官の覇気を正面から受け止め、堂々とその名を名乗った。
「佐伯久良武。……皆からは『カメ』と呼ばれておりまする」
「サエキの、兵の長か……ッ」
カンナビがハッと息を呑む。
三女王の神懸かりの政は、大和の日の光の前に完全に潰えた。
久良武は輿の御簾の向こうにいるモモへ向け、今度は己の誇りをすべて預けるようにして、静かに頭を垂れる。
「これより先、我が命は大和の頑強なる盾。日の神子様の旅路の供に、喜んで捧げ奉るッ!!」
「久良武! よもや、我らを裏切ると申すか!」
今までモモの圧倒的な神力に怯えきり、床に平伏して震えていた三人の女王であったが、自分たちの臣が目の前で別の王に仕えようという宣言には黙ってはいられず、長姉のイチキが顔を跳ね上げて声を張り上げた。
「其方は阿岐の海の民の誇りたる、兵の長! それを、大和の日の神子ごときに魂を売ると……っ!」
妹のタゴコロとタギツも、裏切られた怒りと絶望にその美しい顔を歪め、久良武を激しく睨みつける。 だが、床に両膝を突いたままの久良武は、眉一つ動かさず、ただ静かにそのこうべを女王たちへと向けた。
その瞳にあるのは、かつての主への敵意ではない。
ただどこまでも冷ややかに、事実のみを突きつける。
「……裏切りではございませぬ、阿岐の女王様がた。吾は、吾が率いる海の兵どもの命を、生きて大和の日の光の下へ繋ぐために、ここに跪いているのです」
久良武の、地鳴りのような重厚な声音が広間に響く。
「女王様がたの太占は、先ほど日の神子様の神力によって裂かれ、祭壇の器はすでに無様に崩れ去った。その上、天のなゐ(地震)が起きてあの砦の島が海の底へ沈む行く末すらも、我らは誰一人として『視て』はいなかった」
久良武は濡れた鯨骨の鎧を軋ませ、三女王を真っ直ぐに見据える。
「……裏切りではございませぬ、阿岐の女王様がた。吾は、吾が率いる海の兵どもの命を、生きて大和の日の光の下へ繋ぐために、ここに跪いているのです」
久良武の、地鳴りのような重厚な声音が広間に響く。
濡れた鯨骨の鎧を軋ませ、かつての主たちを真っ直ぐに見据えた。
「女王様がたの太占は、先ほど日の神子様の神力によって裂かれ、祭壇の器はすでに無様に崩れ去った。天の法すらも完璧に『先読み』し、敵であったはずの吾たちの命まで救い上げた御方を前にして、これ以上、どうやって神懸かりの政を掲げると仰るのか」
「ぬ、う……っ……」
久良武の容赦のない、けれど正しい言の刃に、イチキは言葉を失って再び床へと崩れ落ちる。
自分たちの術のなさと、モモの生き神としての果てなき格の違いを、最も頼みとしていた臣下の口から完璧に突きつけられたのだ。
主であった三女王の絶叫を、容赦なき言の刃でへし折った久良武。
広間には今度こそ、誰一人として言葉を発せられない、凍りついたような静寂が満ちていた。
三人の女王は糸が切れたように床へと平伏し、二度と顔を上げることはなかった。
その静寂のなか、長柄の鉄矛を床に突いて腕を組んでいたワニが、ふっと鼻で笑うように息を漏らす。
「――へっ。あののろまなカメの野郎に、後から来たのにこれだけ綺麗に先を越されちゃあ、オレの立つ瀬がねぇな」
ワニは一歩前へと踏み出すと、それまで己の体の一部のように握り締めていた、九嶺の群雄としての誇りそのものである長柄の鉄矛を、自らの手で静かに床へと横たえる。
武器を手放す。
それは、海の荒くれ者たちを束ねてきた彼にとって、これ以上ない魂の平伏であった。
ワニは久良武と肩を並べるようにして、モモの輿の前へと進み出る。
そして、これまで誰の前でも決して曲げることのなかったその長い足を折り、砂泥を滴らせながら、力強く片膝を突く。
「……大和の日の神子様。いや、我が主よ」
ワニはむき出しのこうべを深く垂れ、御簾へ向かって、いつになく偽りなく、けれど彼らしい不敵さを孕んだ声を響かせた。
「最初からオレの裏の兵まで見抜いて、なゐ(・・)の底からオレたちの命も、船も、すべてを一つも損なうことなく救い上げてみせたその神力。……降参だ。この舵は、あんたに預ける」
ワニはバッと顔を跳ね上げると、海のように深い藍色の瞳をぎらつかせ、輿の向こうにいる生き神の気配を見据える。
「これより先、瀬戸内の潮の目も、風の向きも、すべてこのワニ――『彦深臣』が一分の狂いもなく読んで導いてやるよ。日の神子様の御渡の舵は、このオレが命に代えても握り続けてみせらァ!」
内心の戦慄から、皆の御前でのいさぎよき「臣下の礼」への変わり身。
薄暗い御簾の向こう側で、モモは静かに、けれど強く、大和の大神実の剣を抱きしめる。
(……ああ、良かった。誰も、失わずに済んだ……)
その瞳に宿るのは、天のなゐ(・・)を言い当てて他者をねじ伏せる不遜な王の光ではない。己の過酷な『先読み』の力を頼りに、大和の臣も、新たに供となる海の民も、一人残らず生きて救い出せたことへの、胸が震えるほどの深い心の安らぎ。
かつて夜の陣所で、己に刃を突きつけてきたあの貪欲な九嶺の鰐が、今や自ら武器を置き、命を預けると誓って跪いている。
その不器用で、けれど真っ直ぐな海の目の覚悟の重みを、モモはただの生き神の座からではなく、一人の人間として、愛おしさに満ちた暖かな瞳で見つめ返す。
「……良き覚悟だ、ワニよ。これより共に、我が主の盾となり、左右の翼となって西の国を平らげるぞ」
カンナビが誇らしげな声を響かせる。それを聴きながら、モモはトトの遺志を想うように、静かな微笑みをくちもとに湛えた。
御簾の下から彼らを見据え、小さく、けれど毅然とした諾いの頷きを返す。
大和の正統なる日の神子の下。
日の神子の御言を伝えるカンナビ(三輪禰古麻呂)。
御渡の海路を拓く船乗りの要たる「ワニ(彦深臣)」。
そして、盤石の如き盾の列を率いる兵の長たる「カメ(佐伯久良武)」。
阿岐の海をあまねく日の下に置いた大和の日の神子は、新たな海の翼を従えて、筑紫へ向けた次なる果てなき海原へと御渡を果たすための、揺るぎなき備えをここに調える――。
皆さん、三日ぶりです。お待たせいたしました。
そして、ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
さて、新たな臣下として、《カメ》こと佐伯久良武が加わりました。
実は筑紫編が始まって間もないころには別の名前を考えていたのですが、書き進めている間に完全に失念してしまっていて。
急遽、名前を再設定する必要がありました。
《カメ》という渾名から玄武を連想し、「くらたけ」という名を思いつきました。
ただ「玄武」と書いて「くらたけ」と読ませるのでは芸がないと感じ、「久良武」へと変えています。
佐伯姓は、厳島神社を創建したとされる、初代宮司の佐伯鞍職から。
「さえき」だけでなく、「くら」までの韻を踏む二段構え!(手前味噌)
次回から、筑紫へと渡っていきますが、もしかしたら気分次第で海上のシーンになってるかもしれません(いつも場当たり的)。
次回もお楽しみに!




