海底の道、亀甲の盾
潮に濡れる砂地を踏みしめながら、一糸乱れぬ足取りで一歩、また一歩と海底を進む大和の軍勢。
ただ一心に正面を見据え、主君の拓いた道を信じて疑わないカンナビに対し、ワニは未だにこの奇跡の光景に馴れず、信じられぬものを見る目で辺りを見回しながら、おぼつかない足取りで歩調を合わせる。
左右の遙か彼方で逆巻く海原が、重々しく波音を立てて、モモの輿(神奈備)を遠巻きに阻むように控えていた。
いつもなら自分の疾き船で走り回っているはずの海の底を、いま、己の足で歩いている。
(……ありえねぇ。こんなこと、夢のなかでもありえねぇぞ)
ワニは無意識のうちに、足元の砂地を足の指で強く掴むようにして踏みしめた。
足の裏から直に(じかに)伝わってくるのは、ひんやりと湿った砂泥の感触と、今まで波の下に隠されていた滑らかな岩肌の硬さだ。
水が引いたばかりのそこかしこには小さな水溜まりが残り、取り残された魚や海の生き物たちが、にわかに現れた大軍勢の足音に驚いたように身を翻している。
鼻の奥を容赦なく刺すのは、濃厚な潮の匂いと、干し上がった藻類の生々しい香りだ。
潮が引く。
そんなことは、海の民にとって常の光景だ。
だが、これほど広大な範囲の底が一瞬にして干上がり、海の向こうの島へと繋がる一本の巨大な歩道が現れるなど――。
船の上から見下ろすだけだった「海の底」が、いまや自分の足で踏み締められる、ただの地続きの不気味な荒野と化していた。
(噂程度には聞いてはいた。だが、自分がその道を歩くことになるなど、これまで想像もしてこなかった)
背筋を伝う冷たい汗が止まらない。
手のひらに水疱を作って手下どもが必死に橈を漕ぎ、幾度も高波に船底を叩かれながら、命懸けで駆け抜けてきた阿岐の海。
その月の巡りも、風の向きも、この海を統べる全ての理が、輿のなかにいる大和の日の神子の手のひらの上で、まるで行儀の良い家臣のように完璧に転がされている。
その底知れぬ事実に、海の覇者を自負するワニの血が、恐怖と、得体の知れない歓喜で激しく脈打っていた。
やがて、海の中ほどに、巨木をそのまま削り出したかのような二本の柱が、海底へと深く突き立てられているのが見えてきた。
その柱の上部は、太い藁の縄で固く結ばれている。
(これより先が、イチキと、タゴコロ、タギツの三人が支配する領域――)
ワニがその禍々しい境界を見上げ、無意識に足取りを鈍らせた、その時だった。
背後の輿の中から、衣服が擦れる音とともに、清廉な青銅鏡が小さく触れ合う、涼やかな金属の鳴りが響く。
御簾の奥、薄暗がりの輿のなか、モモは静かに目を閉じ、真白な指先で大和の古い印を淀みなく結んでいた。
刹那、張り詰めていた太い藁縄が、内側から爆ぜるような乾いた音を立てて裂けた。
まるで目に見えない刃で断ち切られたかのように、二本の柱を頑なに結んでいた縄が、中央から真っ二つに弾け飛ぶ。
呪力の糸を失った縄が、潮に濡れた砂地へと重々しい音とともに落ちる。
同時に、周囲に漂っていた三女王の不気味な霊気の圧迫感が、土器が割れるように一瞬で霧散していった。
「な……っ、縄が、切れた……!?」
ワニは驚愕のあまり声を裏返らせ、落ちた縄と輿を何度も見比べた。
イチキ、タゴコロ、タギツの三人が、この海を統べるために張り巡らせていた絶対の拒絶の門。
それを、輿の中から一歩も出ず、指先一つの所作だけで、根こそぎ「踏み潰して」みせたのだ。
「ふっ、見たかワニ。我が斎王様の御前において、地方のまつろわぬ民の呪など、張られていないも同然よ」
カンナビは誇らしげに大和の剣を鳴らすと、一切の恐れもなく、二本の柱の間を堂々と跨ぎ越えて進軍を続けた。
境界の柱を越えたその刹那、干潟の先、物見の砦である小島の影から、大地と干潟を底から震わせる凄まじい鬨の声が湧き上がった。
「――チッ、お出ましだぜ! ババアどもの占いを力づくで上書きされて、完全に逆上せ上がりやがったな!」
ワニが忌々しげに、己の愛用する長柄の鉄矛を強く握り直し、干潟の先を睨み据える。
「あれが三女王の絶対の盾――『サエキの軍勢』だ!」
水が引いたばかりの広大な砂泥を蹴立てて姿を現したのは、大和の兵たちがこれまで見たこともない、異様な武装を纏った海の兵どもだった。
彼らが掲げているのは、大和の木製や青銅の角盾ではない。
この瀬戸内の深海に潜む巨大な大亀の甲羅をそのまま削り出し、禍々しい鉄の鋲で補強した、鈍く黒光りする『亀甲の盾』であった。
むき出しの頑強な両腕には、まるで波や海の怪物を模したかのような、藍色の生々しい刺青がびっしりと刻まれている。
身に纏っているのは大和の衣服ではなく、巨大な鯨の骨を精緻に削り合わせて繋ぎ止めた骨の鎧と、鮫のザラついた皮をなめして体に巻き付けた、海の獣そのものの武具であった。
その亀甲の盾を、鯨骨の鎧を軋ませながら隙間なく並べ、泥濘に足を取られるどころか、むしろ泥を滑るような独特の足取りで、凄まじい密度をもってこちらへ肉迫してくる。
「……な、なんたる異形の盾。地を這う大亀そのものではないか」
カンナビは引きつった声を漏らし、目の前の異様な軍勢を睨み据えた。
大和の常識が通用しない、阿岐の海の覇者たちの荒々しい軍勢。
生々しい刺青を躍らせて突っ込んでくるその圧倒的な圧力に、戦に不慣れなカンナビの足が、恐怖で一瞬すくみかける。
大和の剣を握る手には、じっとりとした冷たい汗が滲んでいた。
(――落ち着け。某はイヌ殿たちに、斎王様をお守りすると誓ったのだ。ここで怯んでどうする!)
カンナビは必死に奥歯を噛み締めると、吉備の地で、かつて最強の将であったイヌ(犬養健)が、温羅の軍勢を前に毅然と号令をかけていたあの頼もしい背中を脳裏に思い浮かべた。
その見よう見まねで、震えそうになる声を無理やり張り上げる。
「あ、慌てるなッ! 盾を並べよ! 敵を迎え撃つ構えを作れ! 斎王様を――」
――コォン……。
カンナビの必死の下知を遮るように、背後の輿の中から、酷く澄んだ小銅鐸の音が響き渡った。
張り詰め、破裂しかけていた戦場の空気が、その一音だけで一瞬にして凪ぐ。
ハッと肩を跳ね上げたカンナビは、迫り来る敵から寸時も目を離さない。
大和の剣を前方の敵へと向けたまま、静かに数歩後ずさり、輿の御簾へと必死に耳を寄せた。
「なんと! ……やはり、すべては手の内の通りにございますな!」
主君の新たなる託宣を瞬時に聴き取ったカンナビの顔から、先ほどまでの恐怖が嘘のように消え去る。
彼は再び居住まいを正した。
今度は大和の正統なる祭祀官としての、身震いするほどの威厳をその大音声に宿して、ワニと兵たちへ向かって叫んだ。
「斎王様よりの御下知である! 我らは動く必要はない、右翼の岩盤の上を死守せよ! ぬかるみに足を奪われるなッ! ――敵は勝手に自滅するッ!!」
「――おいおい、大和の役人さんよぉッ! 何を根拠にそんな無茶苦茶を言ってやがるッ!!」
長柄の鉄矛を構えたワニが、湿った砂泥に足を囚われそうになりながらも、焦りを含んだ鋭い声を上げた。
突撃してくるサエキの軍勢は、この干潟の地形を熟知した兵たちだ。あいつらが勝手に自滅するなど、大嘘でもなければあり得ない。
敵の心情をそのまま代弁するかのようなワニの糾問。
だが、カンナビは何も答えなかった。
大和の剣を敵へ向けた姿勢のまま、ただ微動だにせず、冷徹にその正面を見据えている。
ワニが「おいおい、無視してんじゃ――」とさらに色めき立とうとした、まさにその瞬間だった。
鯨骨の鎧と亀甲の盾という、彼らの誇る重武装が仇となり、干し上がったばかりの底なしの泥の中へと、抗えぬ凄まじい勢いで引きずり込まれるように沈み込み始めたのだ。
「なっ……あ、足元が……ッ!?」
「底がないぞ! 引け、引けっ!!」
それまで完璧に統率されていた海の兵どもが、一瞬にして大混乱に陥り、泥の中で無様に溺れ、折り重なっていく。
「う、嘘だろ……。あいつらの動きも、この海の泥の深さも、本当に……最初から全部『見えて』やがったのか……!」
長柄の鉄矛を握るワニの手が、戦慄に震えた。
言葉での説明など何一つない。ただ突きつけられた「敵の自滅」という圧倒的な事実。
海の男としての誇り(ほこり)を粉々にへし折られたワニだったが――次の瞬間、その恐怖は、泥を跳ね上げるような凶暴な笑みへと塗り替えられた。
「――ハッ、最高だぜ! 占いで戦うババアどもの配下が、今度は占いの先読みで綺麗に嵌め殺されるなんざ、おあつらえ向きの茶番じゃねぇか!」
ワニは長柄の鉄矛を豪快に振り回すと、身軽な衣服を躍らせて、泥濘の縁で右往左往しているサエキの残兵たちへと一気に躍り出た。
「これならオレの出番だッ! 大和の兵ども、泥のなかでバタついてる大亀どもを、後ろから片っ端からひっくり返しちまいなァ!!」
一閃。
ワニの放った鉄矛の鋭い一撃が、混乱する敵の喉元を正確に貫き、泥濘へと叩き伏せる。
「者ども、ワニに続けッ! 陣形を保ったまま、岩盤の上から矛を突き立てよ!」
カンナビの大音声の号令が響き渡る。
足元の安全な右翼の岩盤を死守した大和の兵たちは、泥に嵌まって身動きの取れない敵に対し、上から一方的に矛を突き立て、矢を射掛けた。
勝負は一瞬だった。
完璧な先読みによる地形の罠と、そこへ雪崩れ込んだワニの猛攻、そして大和の兵たちの組織的な掃討により。 あれだけ異様な威圧感を放っていたサエキの物見の兵どもは、まともに刃を交えることすらできず、瞬く間に完膚なきまでに叩き伏せられていった。
干潟に響き渡る、サエキの兵たちの命乞いと呻き声。
返り血を浴びた鉄矛を肩に担ぎ、ワニは冷や汗を流しながらも、どこか愉しげに背後の輿を振り返った。
御簾の向こうからは、一切の不浄を寄せ付けない、静かで神聖な気配だけがただ漂っている。
(この、日の神子様の舵を握れるなら、本当にあのババアどもをひっくり返せる……!)
三女王の最初の『物見の砦』は、大和の日の神子によって完膚なきまでに踏み潰されたのだった――。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
海の道を渡り、厳島へと向かうモモたち。
今回、干上がった海の道を進む一行の前に立ち塞がった「海の中の二本の柱と縄」。
皆さんも、「あ、これ鳥居を意識したな」と、ピンと来られたと思います。
現在では厳島神社のシンボルの一つとなっているこの大鳥居を最初に建てたのは、平清盛公とのこと。
厳島という神聖な土地を汚したくない、という想いから、海の上に社殿を建てたそうです。
現在の大鳥居は、九代目。
笠木(柱に対し、横に繋がる部分)は空洞となっており、ここに拳大の石が詰められて7トンほどの重量があるそうです。
柱の自重も含めると、総重量は約60トン。
その重さによって、柱は海底に楔のように打ち付けられています。
ちなみに鳥居の起源には諸説ありますが、天照大御神が天岩戸に隠れた際、神々が「常世の長鳴鳥(鶏)」を鳴かせて呼び戻そうと、止まり木(鳥の居る場所=鳥居)を建てたという神話の説が有名ですね。
ですので、この時代に、鳥居の原型となるような、境界を示すランドマークがあったとしても不思議ではないでしょう。
三女王の守備砦を完膚なきまでに踏み潰したモモたち。
海が割れている限られた刻限のなか、一行はこのまま足を止めることなく、海の道を一気に駆け抜けて厳島の本陣へと突撃します。
いよいよ次号、阿岐の支配者である三女王との直接対決が幕を開けます。第42話もどうぞお楽しみに!




