眠れる忠臣、拓ける海道
御簾に囲われた薄暗がりの輿のなか、モモは静かに目を覚ます。
外からは、サァ、サァ、と穏やかな阿岐の波の音だけが聞こえていた。
「カンナビ、起きてますか?」
「なんですかい? あの大和のお役人なら、まだ寝てますぜ」
御簾のすぐ向こうから返ってきたのは、カンナビの生真面目な重低音ではない。
どこか小馬鹿にしたような、けれど確かな敬意の混ざった、ワニの軽い声音だった。
「日の出からこっち、砂浜で死んだように大イビキかいてまさぁ。……まぁ、無理もねぇですな。オレを警戒して一睡もせず、その上でアレだけの大音声を張り上げりゃ、普通なら喉が千切れて倒れてますぜ。大和の役人ってなぁ、揃いも揃って頑固でしぶてぇんですね」
ワニの言葉通り、少し離れた砂浜からは、カンナビが限界まで職務を全うしきった証拠である、地鳴りのような寝息が風に乗って聞こえてくる。
「そうですか。……まだ一刻ほどは、猶予がありそうですね。半刻もしたら、起こしてあげなさい」
輿のなかで、モモはそっと口元を綻ばせる。
自分の『神力』が告げる正確な未来の猶予を数えながら、忠義の家臣へ捧げる密やかな慈悲。
「へぇ、お優しいことで」
ワニは苦笑混じりに頭を掻きながらも、その言葉に従うように、大イビキをかくカンナビの寝顔へと視線を戻した。
「申し訳ございません斎王様ッッッ! 某、お役目も忘れて熟睡してしまうなどッ!!」
半刻後。
ワニに足蹴にされて飛び起きたカンナビは、己の不覚にガチガチになっていた。
砂浜に頭を半分埋もれさせんばかりの勢いで、全力の謝罪を続けている。
「いいのです。休める時に休むのも、従者の務めです。これに懲りたならば、適度に休むことを覚えなさい」
御簾の向こうから下されたモモの言葉は、どこまでも優しく、そして慈悲に満ちていた。
「は、ははあっ! 三輪禰古麻呂、この御恩情、生涯忘れませぬっ!」
泥のように深く眠ったことで、すっかり目の隈も取れ、いつもの生真面目な顔を涙で潤ませて平伏する堅物な家臣の横で、ワニは腕を組み、怪訝そうな目を輿へと向けた。
「で、日の神子サマ。さっき言ってた一刻ってなぁ、どういうことです?」
ワニの声音から、先ほどまでの軽薄さが消える。
まだカンナビが深く眠っていた時にモモが口にした「あと一刻は余裕がある」という言葉が、海の男であるフカの心をざわつかせていたのだ。
「無礼者、斎王様に直接口を利くな!」
カンナビが激昂して怒鳴ろうとするのを、御簾の向こうからの微かな衣擦れの音が遮る。
その主君の気配に慌てて口を噤み、輿へそっと耳を寄せた。
主君の新たなる託宣を聴き取った瞬間、彼の生真面目な顔が驚愕に染まる。
居住まいを正し、大和の剣を強く握り直すと、ワニへと冷徹にその『行く末』を叩きつけた。
「――斎王様よりの託宣である。これより三十里ほど西へ行った場所。二刻の後、そこに島へと渡る海の道が開けよう」
その言葉が放たれた瞬間、ワニの脳裏に、凄まじい衝撃が駆け抜けた。
「…………っは!?」
ワニは息を呑み、今度こそ己の耳を疑った。
「歩いて、渡る……!? 馬鹿言え、あそこは底の深ぇ凶悪な海原だぞ! 船だってサエキの軍勢に怯えながら進まなきゃならねぇってのに、陸地が現れるなんて聞いたことも――」
そこまで言って、ワニはガタガタと顎を震わせた。
二刻後。
それは、一年のうちで最も潮が引く、特別な刻限。
阿岐の複雑な潮流と月の巡りが重なった時、一瞬だけ瀬戸の海底が姿を現す。
海の民のなかでも、限られた長老しか知らぬはずの『幻の歩道』。
ワニは冷や汗が吹き出るのも構わず、頭の中で狂ったように距離と時間を逆算した。
この養隈の浜から、荷車を引く兵たちの足で三十里の隠密間道を西進すれば、到着までにかかる時間は――およそ二刻。
「おい、嘘だろ……。さっきの『一刻の猶予』ってなぁ……!」
ワニはガタガタと小刻みに震える視線を、微動だにしない薄暗がりの輿へと向けた。
海の道が開くまさにその瞬間から、ここからの移動時間をすべて正確に逆算し――。
ちょうど潮が引ききる二刻後に現地へ着くよう、大和のお役人をギリギリまで一刻の間、寝かせておいてやったというのか。
それを、大和から来たばかりで、輿の中から一歩も出ていないはずの大和の日の神子が。
人間の移動の足並みも、海の隠された刻も、寸分の狂いもなく、その『先読みの神力』で完璧に見透かしてみせたのだ。
「……ハッ。人間の足並みまで、オレたちの海のすべてと一緒に、最初から計算に入れてやがったのかよ……!」
◇
モモの託宣に従い、一行は阿岐の隠密間道を三十里ほど西へと進んだ。
辿り着いたのは、切り立った崖に挟まれた、静かな砂浜だった。
だが――モモの告げた刻限が迫っているというのに、その場所に『海の道』など影も形もない。
目の前に広がっているのは、ただ満々と青い海水を湛え、ザブザブと荒い波を打ち寄せる、いつも通りの底の深い阿岐の海原だった。
「……日の神子サマ。本当に、この刻に例の『道』ができるってんですかい……?」
ワニが水平線を眩しそうに睨みながら、どこか焦りを孕んだ声を漏らす。
その背中には、びっしょりと冷や汗が伝っていた。
海の男である彼の緻密な潮目の計算では、この海域の潮が引ききる奇跡が起きるのは、本来なら【まだ何日も先、あるいは全く異なる刻限】のはずなのだ。
だが、あの輿のなかの日の神子は、人間の歩く足並みすら逆算してこの刻を指定した。
己の海の経験が「あり得ない」と叫ぶ一方で、自然の巡りを超えた彼女の放ったあの圧倒的な神力の残光が、ワニの魂を激しく揺さぶり続けている。
(……頼むぜ、大和の日の神子様。オレのすべてを買い叩いたんだ。オレの積み上げてきた常識を、お前のその力で木っ端微塵にブチ壊してみせてくれよ……!)
「斎王さまを疑うかっ!」
すっかり元気を取り戻したカンナビが、すかさず大和の剣をカチャリと鳴らしてワニへと噛みつく。
「我が主の先読みは一寸の狂いもない! 黙ってその眼を開けて見ておれ、ワニ!」
カンナビが吠えた、まさに次の瞬間だった。
阿岐の海鳴りに混ざり、大地の底から響くような不気味な震動が、じりじりと足元を揺らし始める。
「……なっ!?」
ワニが弾かれたように目を見開いた。
さっきまで足元に白波を立てて打ち寄せていた波が、まるで巨大な生き物が海水を一気に吸い込んでいるかのように、凄まじい勢いで沖へと引き始めたのだ。
引いて、引いて、引き絞られる海。
見る間に海水が割れ、海底の濡れた砂地と、滑らかな岩肌が露わになっていく。
それは、崖の端から、海の向こうに浮かぶ三女王の『物見の砦』が据えられた小島へと向かって、まっすぐに伸びる真白な『一本の海の道』だった。
「う、嘘だろ……。本当に、海が割れやがった……」
ワニは冷や汗を流し、ガタガタと顎を震わせながら、目の前の奇跡の光景に愕然と立ち尽くした。
阿岐の複雑な潮流と月の巡りを完全に見透かさねば、絶対に予知できない、神の領域。
「ふっ、見たかワニ! これぞ斎王様の神力なりッ!」
カンナビは勝ち誇ったように大音声で笑うと、大和の剣を高く掲げ、後続の兵たちへと力強く叫んだ。
「者ども、進めッ! 斎王様が拓かれた『神の道』を、一歩も遅れることなく突き進むのだッ!!」
「おおおーーーっ!!」
大和の兵たちの雄叫びが響き渡る。
一糸乱れぬ足取りで、割れた海底の道を、モモの輿を中心に軍勢が堂々と進軍し始める。
薄暗がりの輿のなかで、モモは静かに目を細めた。
道具(亀甲)を使わねば天の声を聴けぬ女王たち。
その欺瞞に満ちた占いの支配を、自らの本物の神力で根こそぎ「踏み潰す」ための、最初の一歩がここに踏み出されたのだった――。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
本ページの中で、モモが「厳島へ歩いて渡る日時」を予知するシーンが登場します。
現在の厳島神社がある宮島は、古代から島全体が神体山として信仰されていました。
実際にこの海域は潮の満ち引きが激しく、普段は海に沈んでいる場所が、干潮時には大鳥居が立つ砂浜まで地続きになり、歩いて渡ることができます。
しかし、この干潮の時間は毎日約50分ずつズレていき、さらに月の満ち欠けの周期によって「歩けるほど大きく潮が引く日」と「全く引かない日」に分かれます。
現代のような潮見表も天文学の知識もない弥生時代において、この複雑な海の周期をピンポイントで言い当てることは不可能です。
人々を動かす圧倒的な「呪術的権威」を持っているモモだからこそ成し得た、神がかり的な予知の力を表現した一幕です。
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