女王の呪力、日の神子の神力
夜が明け、モモの一行は阿岐は養隈の山中を進んでいく。
先頭で案内するワニの背中を、大和の剣を突きつけながら睨むカンナビ。
その目の下には、一睡もせぬまま監視を続けたせいで、くっきりと深い隈が浮かんでいた。
「ワニよ、本当にこの道で良いのかッ! よもや斎王様を謀ろうというのではあるまいなッ!」
寝不足で今にも倒れそうでありながらも、職務に忠実な男は、気合が入りすぎて少し甲高い声でワニへと糾弾を続ける。
「さっきからそればっかじゃねぇか。疑うんなら、お前の大事な、大和の『日の神子』サマに聞いてこいよ」
ワニが大きなあくびを噛み殺しながら、面倒そうに肩を竦めた。
そんな前方の緊迫(空回り)した様子を眺めながら、後続の荷車を引く兵たちの間には、すっかりいつもの弛緩した空気が流れていく。
「ネコどの、またやってるよ」
「本当によく疲れないな、あいつ。昨夜から一歩進むたびにあの調子だぞ」
「でもよ、あの顔の隈のせいで、ネコ様っていうよりタヌキ様になってねぇか?」
「ははっ、ちげぇねぇ、タヌキ様だ」
やがて、視界は開け、平地と海が見えはじめる。
本来であれば、視界の広がりとともに足取りも軽くなるであろう美しい景色。
しかし、それに反して一行の足取りは、鉛でも引きずっているかのように重くなっていった。
「……これはいったい、どういうことであるか?」
胸を圧迫するような霊的な息苦しさに小さく喘ぎながら、カンナビは大和の剣の柄を握り直して独り言ちる。
「三女王のババアどもの『呪縛』の中に入ったようだな」
隣を進むワニが、忌々しげに顔を歪めて遥か向こうの海を見据えた。
山中を抜けた一行は、じりじりと息苦しさを増していく薄紫色の霧のなか、ついに遮るもののない海岸線へと辿り着いた。
目の前に広がるはずの阿岐の海。
――だが、それは生き物のようにのたうつ禍々しい霧に完全に閉ざされていた。
ゴウゴウと不気味な潮流の音だけが、闇のように響いている。
これ以上は、船を出すどころか一歩も進めない。
誰もがその圧倒的な呪力に足を止めかけた、その時。
――コォン……。
突如として、背後の輿の中から、酷く澄んだ青銅の音が山中に響き渡った。
輿に忍ばせた小さな銅鐸を、モモが打ち鳴らしたのだ。
不浄の霧を切り裂いて届いたその神聖な響きに、前衛のカンナビはハッと肩を跳ね上げる。
即座に振り返ると、大和の剣を構えたまま輿の御簾へと駆け寄った。
「――斎王様!」
「カンナビ」
御簾の向こうから、極小の、しかし凛とした声音が下る。
「御簾を開けなさい。カンナビも、この肌で感じているのでしょう。――阿岐の女王たちが放つ、呪の気配を」
薄暗がりの輿のなかで、モモの桃のような瑞々しい瞳が、霧の奥を静かに見据えた。
「これより、私がそれを破ります」
「御意にッ!」
モモの声に、カンナビは深く一度、頭を下げ――。
振り返り、阿岐の薄紫色の霧を払いのけるような大音声を張り上げた。
「者ども。これより斎王様が神力を使われる。頭を下げよ!」
その尋常ならざる気迫の籠った声に、それまで弛緩していた兵たちの間に、一瞬で鋭い緊張感が走る。
「は、ははっ!!」
大和の兵たちは慌ててその場に平伏し、大地へと額を擦りつけた。
兵たちが完全に額づくのを見届けると、カンナビは深く息を吸い込む。
天の秩序そのものを呼び覚ますかのように、腹の底から魂を震わせて咆哮した。
「オオオオオオ!!」
カンナビの、低く、厳かな蹕の声が山々に木霊する。
その凄まじい気迫には、兵たちだけでなく、あの不敵なワニすらも圧倒され、いっそう深く頭を下げて地を這うように目を伏せるしかなかった。
厳かに警蹕が響き渡るなか、ザァ、と輿の御簾が上げられる音が響く。
モモは、大神実の剣を鞘から静かに引き抜いた。
次の瞬間――。
薄暗がりから引き抜かれたまばゆい白刃が、真白な陽の光を捉え、その剣身へと反射させる。
ギラリ、と太陽の光を十倍にも増幅させたかのような神聖な神力の閃光が、目の前の阿岐の海上一面に炸裂した。
光を浴びた広大な水面が鏡のように閃光を跳ね返す。
水平線の果てまで、光の波が凄まじい速さで駆け抜けていく。
一同を苦しめていた霊的な頭痛が、一瞬で消え去った。
海を完璧に塞いでいた不気味な薄紫色の海霧が、太陽の光に灼かれるようにしてサーッと一気に、跡形もなく晴れ渡っていった――。
(コイツぁ、すげぇ!)
ワニは砂地に額を擦りつけながら、モモの神力を肌で感じ取って驚嘆した。
(あの忌々しいババアどもの呪いの力が、どんどん切り裂かれていくじゃねぇか)
己の額が砂に埋もれるとばかりに、力を入れて平伏し続ける。
この光の主なら、あのクソ忌々しい亀甲の呪縛から、本当にこの海を奪い返せるかもしれない。
海の覇者としてのフカの血が、恐怖と歓喜で激しく脈打っていた。
――ドサリ。
「ふうッ、ふうッ、ふうッ――」
カンナビが砂浜に頽れ、肩で息をする。
無理もない。極限の寝不足に加え、大和の格式を証明するために、腹の底から全力で大音声を張り上げ続けたのだ。
「――カンナビ」
御簾の向こうから、あの透き通るような、しかしどこか労うようなモモの極小の呼びかけが届く。
「は、ははぁッ!」
カンナビは足元をよろけさせながらも、大切な大和の剣をしっかりと鞘に収め、必死で立ち上がった。
震える足で輿へと駆け寄り、深く頭を垂れる。
「少し、疲れました。ここで休みます。ここはワニに任せ、お前も休みなさい」
「――! しかしッ!」
モモの、あまりにも優しい労いの言葉に、カンナビは再び声を裏返らせて食い下がろうとする。
だが、御簾の向こうの主君の気配は、優しくも一切の妥協を許さないものだった。
「ワニなら、もう大丈夫です。――休みなさい」
その決定的な慈悲に、カンナビは言葉を失い、喉を詰まらせた。
モモの放った『神力』は、すでに平伏しているワニ(彦深臣)の魂が完全に自分たちへと屈服し、もはや裏切る意思など微塵もないことを、その『先読み』の力で完璧に見透かしているのだ。
「……は、ははぁっ……。恐れ入りまする……」
カンナビはよろけながらも、深く平伏した。
極限の緊張と寝不足から解放された瞬間、張り詰めていた糸が切れる。
彼はそのまま砂浜へと、泥のように深い眠りへと落ちていった――。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
冒頭で、「養隈」の地名が出てきますが、これは現在の広島県広島市安芸区矢野という地名です。
九嶺(呉)から阿岐へと至る場合、このルートを通るのが正解だろう、という判断です。
「なんで山陽道を通らないの?」というご意見もあるでしょうが、ここではモモたち一行は、「大和朝廷からの官僚の眼を避けている」という設定です(実は、割と後付けでしたが)。
さて、話を戻しますが、この矢野の地は古くから人の生活があることが確認されていて、矢野小学校の校庭からは縄文土器や弥生土器が発掘された、とのことです。
物語はいよいよ阿岐の三女王の前へ。
阿岐、三女王――。
そう、あの地ですね!!
第40話もどうぞお楽しみに!
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