九嶺の鰐、大海の導
焚き火の爆ぜる音だけが響く、静まり返った阿岐の野営地。
モモに呼ばれて輿の傍らに直立不動で控えていたカンナビは、「ご来客のようね」という言葉に驚き、大和の剣の柄に手をかけ、闇を見回していた。
「な……っ!? 某、不覚にも気配を察知できず……! 者ども、出会え! 斎王様をお守り――」
カンナビが慌てて声を張り上げようとした、その時。
彼の言葉を遮るように、輿の御簾の向こうから、凛とした、しかし酷く冷ややかな声が闇の奥へと向かって放たれた。
「――そこに居るのはわかっています。姿を見せなさい」
「……ハッ、こいつは驚いた。大和の兵たちの警戒網をすり抜けるのには自信があったんだがな。まさか、輿の中から一歩も出ねぇ大和の神子様に一発で見破られるとはよ」
カサリ、と草を踏む音がして、闇の中からヌッと一人の若い男が姿を現した。
身軽な衣服をまとい、その瞳には瀬戸内の海風のような不敵な光が宿っている。
「貴様ッ、何奴だ!! 斎王様の御前である。控えよッ!」
カンナビが顔を真っ赤にして大和の剣を引き抜き、男と輿の間に割り込む。
男は突きつけられた鋭い刃を一瞥し、悪びれる様子もなく両手を軽く上げて見せた。
「おいおい、そんなに力むなよ大和の役人さん。こちとら夜釣りの帰りに、見たこともねぇ立派な神奈備(輿)を見つけたからよ。ちょっと挨拶に寄っただけだぜ。……俺のことは、『九嶺のワニ』とでも呼んでくれや」
「九嶺の……ワニ……?」
聞き慣れぬその名に、カンナビの眉が険しく跳ね上がる。
男――ワニはニヤリと唇を吊り上げ、カンナビのガチガチな様子を品定めするように眺めた。
「大和の『日の神子』様が、大軍も引き連れずにこんな地方へ何のご用で来たのか、ちぃっとばかし興味が湧いちまったもんでな」
「――貴様、今なんと言った」
カンナビの目が、ぎらりと鋭く据わった。大和の剣を握る手に一層の力が籠る。
「某らは大和を離れて以降、徹底して正体を秘匿し、ただの貴人の行軍を装うてここまで来た。……国元の朝廷すら関与せぬこの極秘の進軍を、瀬戸のまつろわぬ民が、なぜ日の神子様の御名とともに知っている……!」
ただの生真面目な堅物ではない。
大和の祭祀官として、主君の神聖さを守るための警戒心と観察眼が、カンナビの言葉に刃のような鋭さを与えていた。
だが、ワニは突きつけられた剣の先を恐れる風もなく、むしろ愉しげに肩を揺らして笑った。
「ハッ、お固いねぇ大和の役人さん。あんな立派な大和仕込みの輿(神奈備)を引っ提げて、これまた立派な大和の兵たちを引き連れてりゃ、嫌でも噂は流れてくるさ」
ワニは不敵に目を細め、輿の御簾を睨み据える。
「吉備の温羅の野郎を、恐ろしい神力一つでひっくり返した『大和の桃の御子』の姉御が、輿を西へ進めてるってなぁ……瀬戸内の海の民を舐めねぇ方がいいぜ?」
ワニはそこで言葉を区切った。
カンナビの背後にある、微動だにしない暗がりの輿へと視線を向ける。
ニヤリと、その唇の端を吊り上げた。
「――そして、先ほどオレの接近を見抜いた慧眼」
ワニは細めた瞳の奥で、確信に満ちた光をぎらつかせる。
「それからあとは、お前さんのその、頑なに付き従う態度を見て……オレァ確信したね」
その言葉に、カンナビの背筋に冷たい戦慄が走った。
大和の格式にこだわり、主君を完璧に護ろうとした己の『実直さ』そのものが、目の前の狡猾な海の民に決定的な答え合わせを与えてしまったのだと。
三輪禰古麻呂という優秀な祭祀官は、己の致命的な不覚を瞬時に悟り、喉を鳴らす。
そんな男の動揺すら愉しむように、ワニはさらに唇を吊り上げて言葉を紡いだ。
「流れてきた噂が、ただの大嘘じゃねぇってな。大和の兵が血眼になって護るその輿の中にいるのは――間違いなく、本物の『日の神子』様だってなぁ!」
「ふふ、ふふふ……」
沈黙を破り、御簾の向こうから、底知れない笑い声が微かに漏れ聞こえた。
「……おいおい。何がそんなに可笑しいんだよ」
ワニの不敵な笑みが消え、その瞳に海の野獣のような鋭い光が宿る。
「貴様っ! 斎王様に向かってなんたる不敬かッ!」
カンナビが激昂し、大和の剣をワニの鼻先へと突きつける。
その時、御簾の向こうから、微かな衣擦れの音がした。
ハッと肩を跳ね上げたカンナビは、ワニから寸時も目を離さない。
剣先をその胸元へと向けたまま、静かに数歩後ずさり、輿の御簾へと耳を寄せる。
「――。――、――。」
夜のしじまのなか、輿の中からカンナビの耳元へ、ワニには決して届かない極小の囁きが紡がれる。
「なんと!……あるいは、さすがは斎王様にございます。では仰せのままに」
感嘆のあまり思わず声を漏らしたカンナビは、再び居住まいを正した。
今度はぐっと前へ踏み出す。
大和の剣をワニの鼻先へと改めて突きつけつつ、その瞳に身震いするほどの威厳を宿した。
夜のしじまを切り裂くような大音声が、畳みかけられる。
「斎王様よりの御下知である。――この茶番、いつまで続ける気であるか、九嶺のワニ」
カンナビはそこで一度、言葉を区切った。
凍りつく男の胸元へと、冷徹な宣告を突き刺す。
「――いや。彦深臣」
その真名が響いた瞬間、ワニは完全に息を呑んだ。
不敵に吊り上がっていた唇が、戦慄に凍りつく。
「なぜその名を……っ!?」
ワニの瞳から軽薄な光が一瞬で消え去り、底知れない戦慄が走る。
だがカンナビは、ワニの驚愕に猶予など与えなかった。
大和の剣をぴたりと突きつけたまま、冷徹な追撃の言葉を浴びせる。
「偶然通りかかったことも、態度を見て確信した、ということも。――其方、初めから斎王様に用があってここへ来たことは明白」
「…………っ」
「其方の望みは、ただ一つ。――阿岐の三女王の卜占を、斎王様に破って欲しいからに他ならないのであろう。初めからそう言えば良いものを!」
冷や汗を流し、言葉を失って立ち尽くすワニ。
自分の本名だけでなく、胸の奥底に秘めていた「三女王の支配をひっくり返したい」という泥泥しい野心まで。
すべてを、輿の中から見通す大和の斎王と、その実直なる役人に剥ぎ取られていた。
ワニはしばらく呆然と輿を見つめていたが、やがて、観念したように不敵な笑みを歪に引きつらせ、頭を掻いた。
「……ハッ。まいったね。大和の『日の神子』の神力ってなぁ、オレがここに来た目的まで筒抜けってワケかい。こりゃあ、噂に違わぬ神通力だな、おい」
ワニは一歩身を乗り出し、声を低く潜める。
「あのおっかねぇ三人の女王どもはよ、カメの甲羅を火にかけて、そこに出るひび割れ一つでこの安芸の海の天候も、潮流も、オレたちの運命すらも完璧に先読みして支配してやがる」
その瞳の奥に、仄暗い怒りの炎が灯る。
「……オレァ、あのクソ忌々しい『亀甲の呪縛』から、この海を奪い返したくてたまらねぇんだ」
ワニの声音には、ギラリとした野獣の飢えと、一世一代の賭けに出る男の熱が混ざっていた。
「だが、人間の知恵じゃあの占いにどうしても勝てねぇ。だから試させてもらったのさ。大和から、あの占いを上書きできる本物の『先読みの神通力』を持った化け物がやってきたって噂をよ」
ワニは一歩前へ踏み出す。
今度はカンナビの剣ではなく、輿の御簾の向こうにいるモモの気配を真っ直ぐに睨み据えた。
「……なぁ、日の神子様。あんたのその力で、あの三人のババァどもの占いを、根こそぎ踏み潰してみせる気はねぇかい?」
夜のしじまのなか、輿の前に立ちはだかるカンナビは、ぴたりと剣を突きつけたままだった。
冷徹に、その野心を一蹴する。
「片腹痛いわ。其方が望みを叶えたところで、斎王様に何の益があろうか」
「…………っ」
ワニは息を呑み、再び言葉を詰まらせた。
「其方が三女王の呪縛から逃れたいのは、傷を負った己の都合。我が斎王様がわざわざその手を汚し、安芸のまつろわぬ民と戦う義理などどこにもない。……其方は我が主に、何を差し出せるのだ」
輿の御簾の向こう、薄暗がりの輿のなかで、モモが静かに、愉しげに目を細める気配が伝わる。
ワニは冷や汗を流しながらも、今度は心底感服したようにククッと肩を揺らして笑った。
「ハッ……まいったね、本当に。ただの、神通力を操る大和の神子様かと思えば、喉元を固める役人まで、とんでもねぇ食えねぇ『王様』の陣営だ。気に入ったぜ」
ワニはその場に深く平伏する。
「あんたがその本物の神力で、あの三人の占いを踏み潰してくれるなら、この九嶺の海を、瀬戸内の全ての航路をあんたに捧げてやる。あんたの輿を、筑紫、いやもっと先――海の向こうの果てまで、一寸の狂いもなく運んでみせる。オレの船と航海術、大和の神子様の『足』として、丸ごと買い叩いてくれや」
ワニはその場に深く平伏した。
もはやそこに、最初の軽薄な海賊の姿はない。
海に生きる一人の群雄として、己の全てを賭けた臣従の誓いだった。
沈黙が夜の野営地を支配する。
すると、御簾の向こう、薄暗がりの輿のなかから――。
「ふっ」と密やかに笑う声が揺れる。
それは冷徹な女王の仮面の裏に隠された、どこか愉しげな、モモとしての本音の笑みのようでもあった。
そしてモモは再び、カンナビに囁く。
カンナビは慌てて御簾へ耳を寄せ、その「先読み」のさらに先にある主君の真意を聴き取った。
その瞬間、彼の生真面目な顔が驚愕に染まる。
「――!?……よろしいのですか?」
思わず素の声を漏らして輿を振り返ったカンナビだったが、御簾の向こうの主君の意志が揺るがないことを察すると、ゴクリと唾を呑んで居住まいを正した。
「……御意」
ゆっくりと、平伏するワニ(彦深臣)へと向き直る。
その声には、先ほどまでの値踏みするような冷たさはなく、大和の正統なる代弁者としての、厳かな響きが乗っていた。
「……九嶺のワニよ。夜が明けたら案内せい。我が斎王様の御下知である!」
カンナビの口から放たれた厳格な下知に、床に伏せていたワニはハッと顔を上げ、その前に立つカンナビの冷徹な眼光を見据えた。
「――!……ああ、いいだろう」
ワニは冷や汗を流しながらも、観念したように不敵な笑みを歪に引きつらせて、再び頭を下げた。
カンナビは、ワニの鼻先へ大和の剣をぴたりと突きつけたまま、その背中へと鋭い視線を突き刺して低く呟く。
「……三輪禰古麻呂。この者から片時も目を離すでない……と、斎王様より仰せつかっておる。裏切りは断じて許さぬぞ、ワニ!」
主君に頂いた大役にガチガチになりながらも、カンナビは自分自身の本名(三輪禰古麻呂)を胸の中で反芻して己を奮い立たせ、再び剣を強く構え直した。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
新章「阿岐編」のキーパーソンとして、新たに『九嶺のワニ(彦深臣)』が登場いたしました。
作中に出てくる「九嶺」という地名は、九つの険しい嶺(峰)に囲まれた港湾地域であることに由来します。
歴史や地理に詳しい方ならピンとこられたかもしれませんが、この「九嶺」という響きが、のちの時代に縮まり、転じて現代の広島県「呉」という地名になったという説があります。
大和の常識が通用しない瀬戸内の「まつろわぬ民」であり、同時にのちの和邇氏の祖ともなるフカが、モモ陣営にどのような波乱と変革をもたらすのか。
そして、生真面目すぎる「ネコ」こと三輪禰古麻呂との凸凹な関係がどうなっていくのか。
次回、いよいよ夜が明け、安芸を支配する三人の女王たちの領域へと迫ります。
第39話もどうぞお楽しみに!
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