阿岐の大地、生真面目な臣
吉備の地を離れて数週間あまり。
モモたち一行は、険しい山道を登り詰め、ようやく阿岐の九嶺を望む鉢巻の峠へと踏み入れた。
遮るもののなくなった高台からは、切り立った山々の裾野に広がる阿岐の大地が見渡せる。
その向こうには、陽光を浴びて幾千もの島々が煌めく瀬戸の内海が一望できた。
――大和の思惑を離れ、吉備の恩讐を超えて、約束の天地たる筑紫の国へと進むモモ。
彼女に付き従うのは、道案内を兼ねた大和の僅かな兵たちと、民が仕立ててくれた一基の輿のみである。
「――カンナビ。ここで休みます」
輿の御簾の隙間から、ほんのわずかに変わった風の匂いを嗅ぎ取り、モモが声を掛ける。
黄泉の国から帰還したその肌には、かつての禁呪による青白さは微塵もない。
亡き弟の形見である武骨な鎧をまといながらも、その顔立ちには、桃のような瑞々しい生気が満ちていた。
傍らに控える男――カンナビは、その静かな声にびくりと肩を竦める。
だが、それも一瞬のこと。
一転して、背筋をこれでもかと伸ばし、声を張り上げた。
「ーーー全軍、停止ィッ!! 斎王様の御下知であるッ、ここで輿を下ろせェーーーいッッ!!」
山々にまで木霊しそうな、気合が入りすぎて少し甲高く裏返った声。
それを聞いた兵たちの間に、ふっと弛緩した空気が流れていった。
「ネコ様、お水どうぞ〜」
「おうネコ頭領、今日も良い裏返りっぷりでしたな!」
「こ、これっ、貴様らッ! 某は斎王様の喉たる『カンナビ』である! 軽々しくネコなどと呼ぶな、ネコではござらぬーーーっ!!」
顔を真っ赤にして地団駄を踏む彼の姿に、峠に集まった兵たちからゲラゲラと温かい笑い声が湧き上がる。 無駄に厳格な男の無駄な抗議は、いつだって一行の最高の清涼剤だった。
「休憩とはいえ、緊張感が足りないようですな。大和の格式を見せつけねば……」
額の汗を必死に拭いながら、帯びた大和の刀の柄を握り直すカンナビ。
薄暗がりの輿のなか、モモは独りごちて、小さく苦笑を漏らした。
(……ほんと、気合が入りすぎなのよね、カンナビは)
実は、吉備を発った直後、モモも一度だけ彼のことを「ねえ、ネコ」と呼んでみたことがあるのだ。
その瞬間、彼はこの世の終わりかというほど悲しい顔をして、
「ひ、斎王様まで某をそのようにお呼びになるとは……大和の格式が……」
と、今にも泣き出しそうな声をあげた。
それ以来、モモは呼びたくてもグッと我慢して、彼の自尊心のために「カンナビ」と呼んであげている。
そんな主従の「秘密の貸し借り」があるからこそ、二人の信頼は誰よりも深かった。
武芸も異能もない、三輪禰古麻呂という男。
残してきた義弟妹たちの影に隠れていた彼が、今、必死に大和の格式を背負って、斎王たるモモの『喉』になろうとしている。
御簾の向こうでそっと目を伏せる。
モモの意識は、あの吉備の別れの日――
イヌたちから彼へとお役目が手渡された、あの宮処へと誘われていった。
◇
「三輪どの。姉上のこと、くれぐれもよろしく頼むぞ。命に代えても、だ」
上座にモモが座すなか。
イヌが、暑苦しいまでに顔を近づけ、三輪禰古麻呂に念を押す。
「命に代えても……! ははっ、この三輪禰古麻呂、命に代えても斎王様をお守りいたしますっ!」
必死に床へ額をこすりつける禰古麻呂の背中。
そこへ、待ってましたとばかりにサルが割り込んだ。
「だから、言ってんじゃねぇか。おめぇは何だか堅っ苦しいんだよ。もうちょっと気楽にやれや、ネコ。四六時中そんなんじゃ、兵たちも息が詰まっちまうぞ」
サルが呆れながら、禰古麻呂の肩を無遠慮に叩いて諭す。
その騒がしくも温かいやり取りを、モモは静かに見つめていた。
「某、ネコではござらん!」
「いいじゃねぇか、可愛いだろうがよぉ」
「おい、サル、茶化すな」
イヌがそれを制し、真剣な眼差しで禰古麻呂を見つめた。
モモの傍らに控えていたキジが、「本当にこの男で大丈夫なのか」と心配そうに声を潜める。だが、イヌの決意は固かった。
「三輪どの。お主が守るのは、姉上が隠れ籠る『神奈備(輿)』だ。外の奴らの前では、もうお主はただの役人ではない。神の言葉を伝える者――『カンナビ』を名乗れ」
イヌの言葉が、禰古麻呂の胸に真っ直ぐに突き刺さる。
「お主が、姉上の聖域を守る壁になるんだ」
「……カンナビ、でございますか」
戸惑うように呟いた彼へ、上座からモモが静かに言葉を掛けた。
「――これから、よろしく頼みますよ、カンナビ」
黄泉から帰還し、真の王としての生気を宿したモモの、初めての御下知。
その声に、彼はハッと弾かれたように顔を上げ、手渡された大和の剣の重みを深く噛み締める。
彼がその新たな名と役割を、生涯の忠誠とともに深く胸に刻み込んだ瞬間を、モモは今でも鮮明に覚えている。
◇
「――さま。斎王様」
輿の外から、カンナビが呼びかける声に、モモは我にかえる。
「そろそろ出立しませぬと、日の暮れぬうちに次の野営の予定場所には辿り着けませぬ。何卒、ご下知を」
(本当に、実直な男……)
モモは義弟妹たちの言葉を胸の中でそっと閉じ、御簾の向こうへと静かな声を返した。
「――ええ。カンナビ、出立の合図を」
「御意にッ!」
外でカンナビが再び居住まいを正し、先ほど以上に気合の入った、しかしどこか兵たちをフッと和ませる大音声を張り上げる気配がする。
動き出す輿に揺られながら、モモは思う。
カンナビが木簡に寸分の狂いもなく書き記した、次の宿営地。
だが、その地へ至る瀬戸の海には、大和の法も、吉備の常識も通用しない「まつろわぬ民」が網を張って待ち受けていることを、まだ外の生真面目な『ネコ』は知る由もなかった――。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
さて、イヌ、サル、キジを吉備の地に置いてきてしまったのですが、モモが命令を下すにしても、家臣から下知するのが本筋だろう――と思い悩んだ挙句、登場したのが「三輪禰古麻呂」です。
これは完全オリジナルではあります。
最初は「カンナビ」という役職名のみのつもりでしたが、回想シーンでイヌたちとのやり取りを書くなかで、本名で名乗りを上げるシーンでは格好がつかない、と思い、急きょ名前を作りました。
倭迹迹日百襲姫命のルーツとなる三輪の地をベースとしつつ、イヌやサル、キジと並ぶ、「ネコ」という動物を彷彿とする名、そして「禰」「古」「麻呂」と、いかにもな文字列を繋げています。
「ネコ」という可愛らしい名のわりに、本人はクソ真面目な性格、というギャップ。
兵たちからも愛されキャラとして描いてみました。
さて、阿岐の地へと踏み込んだモモ一行。
ここで、まつろわぬ民と対峙します。
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