吉備の中山、日の御子の輿
「……何も、こんなに集まらなくても良かったのに」
トト――改め、最愛の弟の名を襲名したモモが、小さく苦笑を漏らす。
彼女の出立に際し、吉備の中山の麓の街道には、吉備の民が総出で見送ろうと溢れかえっていた。
「そりゃあ無理な話だ。すっかりモモ様は吉備じゃあ人気者だからな。――黙って出ていかれたら、みんな悲しむだろ?」
破顔するサル。
その顔には、かつて間者として這い回っていた頃の、卑屈な翳はもうどこにもない。
「それにしても媛さま。我らが共に行かずとも、本当によろしかったのですか?」
イヌが心細げに問いかけてくる。
その様子は、主に置いて行かれて激しくしょげる、大きな犬のようでもあった。
思わず、モモは吹き出す。
――そう、この穏やかな出立の朝を迎えるまでには。
あの激闘の夜からの、あまりにも泥臭い戦後処理の日々が横たわっていた。
◇
大殿に残された、本物の皇子の亡骸を前に。
イヌとキジ――犬飼健と留玉臣の二人が、朝廷(大和)へ送り続けなければならなかったのは、あのでっち上げた『防人の虚言』であった。
首級の件はワカの凱旋によって決着したものの、朝廷の強欲な目は、なおも吉備の誇る「黒鉄の秘術」へと向けられていた。
総大将・モモの壮絶な戦死。
そして、最高巫女たるトトが現地に留まるという異常な事態。
そのすべてを「吉備の完全なる平定と、呪いを鎮めるための不可避の措置」であると言い繕い、完璧なる虚実の裏付けを、彼らは血の滲むような思いで作り上げていく。
中央から鉄山を奪わんと使者が訪れるたび、イヌは将としての冷徹な眼光で大嘘を護り抜いた。
大軍によるこれ以上の吉備の蹂躙を力ずくで防ぎ、この地との融和を泥臭く推し進めていく。
その一方で、イヌたちはモモの肉体を大和へ引き渡すことはしなかった。
この吉備の中山の清らかなる山頂へと、密かに。
けれど、誰よりも重々しく埋葬したのだ。
その傍らで、吉備の新たな『領主』となったサル――楽々森彦を待っていたのは。
人生にくたびれる暇もないほどの、泥まみれの雑務の数数であった。
かつて温羅の苛政に鞭打たれていた高炉の技術者や、領民たちの手を泥臭く握り締め、荒れ果てた鉄山と田畑を一日ごとに開拓していく。
それは恩讐を越えた、ただの一人の人間としての、泥臭い生活の地肌であった。
――だが。
東の工房の竈の底。
秘匿された温羅の本物の首級からは、今も夜な夜な、人ならざる覇王の唸り声が低く響き渡り、大地を震わせていた。
その咆哮を、吉備の行く先を占う『安寧の呪』へと変えるため。
モモが旅立つ前夜に授けた、あの竈の下に首を隠し、釜の鳴る音の清濁を以て占うべしという祝詞の言霊。
それを授かった時の、サルの覚悟たるや。自らの血脈に至るまで、――黄泉の底までこの誓いを継承し、護り抜いてみせる。
その絶対の覚悟が、サルのあのゴツゴツとした開拓者の手へと。
確かに刻まれた、日々の重みであった。
◇
「どうだい、乗り心地は?」
得意げに問うサル。
その視線の先には、民たちが総出で作ってくれた無骨な輿に乗るモモの姿があった。
「ええ、意外と悪くはないわね。それに、私に合わせてくれたあの子の鎧も、思ったより体に馴染んでいるわ……ただ、視点が高くなったせいか、少し落ち着かないわね」
輿の周囲を見回しながら、モモは気恥ずかしそうに答える。
「そりゃ、馴れてもらうしかねぇなぁ。でも、頑丈に作ったから、安心してくれ」
「拙者が乗っても壊れなかったのでな。それは太鼓判を押そう」
「なるほど。それは安心ね」
腕を組み、義兄弟の仕事を自慢するかのようにふんぞり返るイヌ。
それを見て、再びモモは笑う。
「――モモ様、ご武運をお祈り申しあげます」
かつての華々しい戦装束を脱ぎ捨て、生成りの【襦】と【裳】を纏ったキジが、モモの行く先を願う。
「ええ。あの二人のこと。そしてここ吉備のこと。頼んだわよ」
「吉備のほうはお任せください。……あの二人のことまでは、どうでしょうね」
冗談めかしつつも、頼もしいその言葉に、モモは微笑みを返す。
そして。名残惜しげに正面へと向き直ると、腰元の白刃を引き抜いた。
【大神実の剣】――。
かつて、己の実弟たる彦五十芹彦を救うため、黄泉の国へと降り立ち、そこで手に入れた神話の依り代。
それが、遮るもののない現世の朝陽を反射し、彼女が征く、遥か西の地平を眩く照らし出す。
「畏き御言なりッ!!」
大殿の静寂を打ち破るが如き、イヌの地鳴りのような大音声。
「日の御子の輿をかき上げよ! 兵ども、御盾となりて前へ進めいッ!!」
大地を響かせるように太鼓が鳴り響き、モモの乗る輿が、うねるようにして高く持ち上げられる。
そして、太鼓の重々しい音響に合わせるように、ゆっくりと歩を進めていった。
モモは、振り向かない。
その未来を――。
大和の業をも飲み干す新たなる正史を見遂げるため、ただ毅然と前を向き続けた。
吉備の民が総出で作り上げた輿が。
薄紅色の桃の花びらが舞い散るなか、西の筑紫へと向かう陸路の街道へ、ゆっくりとその姿を遠ざけていく。
その輿が小さくなっていく吉備の中山の麓。
静まり返った街道のなかで、見送っていた三人の影がぽつんと顔を見合わせた。
「行っちまったな」
サルが、ポツリと漏らす。
「うむ。だが、まだまだ忙しいぞ――吉備津彦どの」
「キビツヒコだぁ? オレにゃ、そんなだいそれた名前は似合わねぇよ」
「まあな。本来ならモモにこそ、受けてもらいたい名だったからな」
キジが、愛おしそうに西の空を見つめる。
「行かれてしまわれたものは、仕方ない」
「――なぁ。オレら三人で『吉備津彦』ってのはどうだ?」
サルの突飛な提案に、イヌとキジがハッと顔を見合わせた。
「ふむ、悪くはないな」
「吉備の談合で繋がった絆だしな。異存はない」
「なら、決まりだ。これから――オレたちが吉備津彦だ」
西の空を見る義兄妹の、六つの瞳に。
眩い春の陽光が、美しく反射する。
死んだモモと温羅の遺志を背負い、大和の侵略の業を超えて。
新たなる女王を乗せた輿が、新たなる戦天地たる『筑紫の夜明け』へと向かって加速していく。
世界が完璧な暗転を迎えた、まさにその瞬間であった――。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
前話「桃園の誓い、吉備の談合」にて、吉備における物語はひと段落……と思ったのですが、そこからトトは吉備を離れ、筑紫(北九州)へと向かう、という話へと繋ぐ、そんな幕間にあたるのが本話です。
前の話で、トトが吉備の民から「モモ様」と呼ばれているのに託けて、「それならモモを名乗ろうかしら」と冗談めかして言いますが、ここでトトという名をモモへと切り替えるためのギミックとして機能させてもいます。
そして、吉備津彦の名。
本来は、彦五十芹彦命に与えられた名ですが、それを犬飼健、楽々森彦、留玉臣の三人で共有する名としました。
さて、次回からはいよいよモモ(百襲媛)の旅路となります。
今しばらく、お付き合いください。
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