女王の真名、覇王の真願
桃の大樹の光を浴び――。
トトが、その炯眼を開いた。
「――姉上!」
驚愕と喜びとを綯い交ぜにしたワカの声。
だが、トトはやや困惑したような声を漏らす。
「ワカ? どうしてここに……?」
まだ焦点の定まらぬその双眸で、トトは静かにイヌとキジの姿を視て取った。
すべてを察した彼女の薄き唇が、ゆったりと弧を描く。
「ふふ。そういうことね。……ふふ。――どんぶらこ、ね」
「姉上?」
小さく笑ったトトに、ワカが怪訝そうに問う。
だが、トトは優しく、そして冷徹なる大局の声音を大殿へと響かせた。
「ワカ。私なら温羅の首の場所が判るわ。案内しましょう。――イヌ、それにキジも付いてきなさい」
トトの言葉の意図を背中で受け止めた瞬間。
平伏していたイヌとキジは、自らの喉を血の味で締め付けながらも、無言のまま床の拳へと固く力を込めた。
トトには、ワカや後詰の大軍を、森彦が本物の首を秘匿したあの竈の底へ近づけるつもりなど毛頭ない。
大和の最高峰の巫女としての絶対の神懸かりを以て、大殿の最奥から、温羅の巨躯によく似た、物言わぬ【偽物の首級】を。
「これこそが川に流れた本物の鬼の首よ」と、ワカたちの眼前へと堂々と手繰り寄せてみせたのだ。
「なんと……! これが、吉備の覇王の首か……っ!」
トトの放つ異様な霊力の残光の前に、ワカも、後ろに控える大和の兵たちも寸分の疑いすら持たない。
その偽物の戦果を前に、ただただ驚愕し、平伏するしかなかった。
総大将・モモの死という最悪の事態のなかにあって、この「温羅の首」という絶対の戦功をワカへと手渡す。これによって、激怒した朝廷が次なる大軍を差し向け、吉備の地を根こそぎ蹂躙するのを完全に防いだのだ。
ワカたち全軍が大和へと堂々と引き揚げるための、【正当な口実(大義名分)】。
トトはその鋭き知性を以て、完璧なる正史を構築してみせた。
「姉上。この首級は必ずや、大王に届けます」
「しかし姉上も、共に帰らなくてよろしかったのですか?」
偽物とはつゆほども疑わず、首級の入った函を大事そうに抱えたワカが、名残惜しそうに呟く。
その純粋な弟の眼差しを、トトは正面から受け止めた。
手元の【大神実の剣】と【生命の種】をその胸へと静かに抱き締めながら、どこまでも気高く、冷徹に言葉を返す。
「ワカ。私は大和の巫女としてこの地に残り、モモの魂を――吉備の行く末を鎮めなければならないの」
「だから大王には、吉備は完全に大和の王道へ平定されたと報告なさい」
それは、イヌの放った虚言(大嘘)を本物の正史へと変えるための、女王としての最初にして最後の宣告であった。
「……御意。姉上、どうか、お健やかに」
トトの誰も拒めぬ、神懸かりの佇まいの前に。
ワカは涙を拭って深く平伏すると、抱えた函を落とさぬよう、大和の後詰の大軍を引き連れて鬼ノ城の門の向こう側へと重々しく撤退を開始した。
重々しい音を響かせながら、大殿の黒鉄の門が閉ざされる。
大軍の足音が、現世の彼方へと完全に遠ざかっていく。
再び訪れた、現世の喉元を締め付けるような静寂。
ワカたち全軍が完全に吉備の地を去ったのを見届けると、トト、イヌ、キジの三人は、モモの物言わぬ亡骸、そしてその足元にぽつんと芽吹いた【一本の小さな木の芽】に静かな一礼を落とした。
そのままの足で、大殿の奥にある東の工房の『竈』へと、重々しく歩みを進める。
高炉の熱気が立ち込め、血の匂いの立ち込める暗黒の竈の底。
そこには、温羅の最期の命令を完遂し、その本物の首級を竈の底へと秘匿し終えたばかりの森彦が、面の裏側の涙を拭ってポツンと立ち尽くしていた。
大和の全軍を追い返し、恩讐のすべてを泥臭く包み込んだ三人の影が、音もなくその暗黒へと姿を現す。
「……あんたらか。オレを断罪に来たのか?」
今までの、人を食ったような皮肉めいた顔つきは消え、人生にくたびれた男の姿がそこにはあった。
「まさか。そのつもりであったなら、最初から北門で断罪していたわ。今さら蒸し返すつもりもないの。それはすでに、モモとも共有していることよ」
トトのその凛とした、どこまでも気高き言霊。
大和を嵌めようとしていたこの間者を、トトはあの北門で正体を見透かしながら、あえて断罪せず仲間のもとへ逃がしてやった。
そしてモモもまた、そのトトの慈悲を全面的に信頼して受け入れていたのだ。
「じゃあなんだ? ここをほじくり返して、温羅様の首を掻っ攫って、大和への手土産にするってか?」
森彦は荒々しくも、悲痛な殺気を孕んで睨み返す。
親を殺された恩讐を越えて、温羅から「お前に託す」と首を委ねられたことで、男の心には吉備の臣下としての本物の執念が宿っていた。
その瞬間――。
『――オオ、オオオオォォォォ……』
竈が震え、人ならざる者の如き聲が不気味に響き渡った。
温羅の本物の首が放つ、地鳴りの如き魂の咆哮。
「温羅様っ!?」
その聲音を聴いた森彦は、さっと踵を返し、竈に向けて深く平伏した。
「――少なくとも温羅は、貴方よりも事情が解っているようね」
トトはその地鳴りの聲の奥にある、覇王の最期の誓いを――吉備の行く先を占うという執念を、その炯眼で冷徹に読み解く。
そして、竈の暗黒へと真っ正面から語りかけた。
「温羅。聴こえるかしら」
「我が名は、倭迹迹日百襲姫」
「貴方が可愛がっているこのサルを、この地の領主となるよう、手伝ってあげるわ」
「はあぁ!? お前、気でも狂ったのか!? そんなことして、お前になんの得があるってんだ!」
平伏したまま、森彦は剥き出しの困惑の声をあげる。だが、トトは優しく、そして冷徹なる大局の聲音で言い放った。
「損得勘定じゃないわ。単にモモ――私の可愛い弟の、最期の頼みですもの。貴方だって、温羅からの最期の命令があるのでしょう? だからこれは、利害が一致しているのよ」
大和の正義も朝廷の呪縛もすべて切り離した、トトの剥き出しの情愛。
二人の若者が、それぞれ自分が最も大切に想い、守り抜いて死んでいった「ふたりの王」の最期の遺志を背負う。
ここで初めて、本当の宿命の合致を以て、固き契りへと結び合わされたのだ。
『――オオォ……』
(タノム)
それは、森彦の耳にも確かに届いた――。
温羅の正真正銘、最期の言葉。
「ええ。任されたわ」
トトは、女王の品格を湛えた不敵な笑みで、その聲に応えた。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
トトが、温羅の首級の眠る竈の前で、自身の真名を明かしました。
そして温羅もまた、そのトトに対して願いを託す。
ここは、鳴釜神事への伏線回収のつもりで書きました。
次回をお楽しみに。
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