凍てつく風、音亡き大地
凍てつく冷たき風が頬を刺し、トトは閉じていた目をそっと開けた。
赤赤とした熱気の籠る鬼ノ城の大殿から一転。そこは、すべての色彩が喪われた世界であった。
闇ではない。
一寸先どころか、遥か彼方の地平まで見通すことができる。
だが、どこまで歩みを進めても、そこには命の営みを拒絶するような、灰色の静寂しか存在しなかった。現世の理を完全に失った、引き返せぬ冥府の地肌。
「――ひとまず、成功はしたらしいわね」
トトは毅然とした声でぽつりと呟くと、モモの魂を求めて、色彩を喪った灰色の地平へと最初の一歩を踏み出した。
その瞬間、トトの草鞋の底を異質な感覚が襲う。
足元は、どこまでも平坦に続く、細かな灰のような砂地。だが、現世の赤土とは決定的に異なり、足をどれほど烈しく踏み締めようとも、歩みの音が一切響かない。現世のあらゆる振動を吸い取る底なしの虚無の如く、トトの肉体が発するすべての「音」が、足元の灰へと冷酷に吸い込まれて消えていくのだ。
異様なのは、足元だけではなかった。
トトの細き身体を横殴りに打ち据える、凍てつく冥府の暴風。
その風の冷たさは、確かにトトの頬を刺し、衣服を烈しく揺らしている。
にもかかわらず、吹き荒れる風の音が、耳の奥へとただの一振りの振動すらも届けてはこない。
肌は激しい風を感じているのに、世界からは音さえも喪われている。
五感のすべてを狂わせるような、完全なる「無音の狂瀾」。
耳の奥が痛痛しいほどに鳴り響く極限の静寂のなか、トトは息を詰まらせながらも、その細き足を一歩、また一歩と、死の世界の深淵へ向けてゆるゆると進めていった。
「――闇雲に歩くのはダメね」
半刻も歩いただろうか。
刻という概念が存在するのかさえ怪しいなか、ただ現世に置いてきた自らの魂が、じわじわと毟り取られるように削られていく。その確固たる事実だけが、冷徹な負荷として胸の奥底に蓄積されていた。
このまま無音の灰色の世界のなかで独り果てれば、己の存在ごと、この虚無の地肌へ鎔けて同化してしまう。
トトは逼迫しゆく生の刻限をその身で捉えながら、静かに歩みを止めた。
「――視えるといいのだけれど」
祈るようにして、ポツリと零されたその細き一言。
トトは静かにまぶたを閉じ、現世の死線のなかでよみがえらせた巫女の神懸かりを、その双眸へと一烈に引き絞った。
――カッ、と世界が爆ぜるような、白銀の閃光。
元よりこの冥府には、時間も、距離も、空間という概念すら存在しない。生命の営みを拒絶する灰色の虚無。そこでは、現世の如き「歩み」など何の意味も持たなかった。
だからこそ――トトの唇から放たれた「モモ」という狂おしいほどの言霊が、引き裂かれた虚無の闇を疾走した。
生まれたあの日、自らの命を半分に分けて分け与えた、片割れの魂。そのモモの奥底に眠る「あらゆる呪いを焼き尽くす清らかな桃の霊気」が、姉の覚醒した最高神力と、時空を超えて最悪の噛み合いを見せたのだ。
二つの魂の共鳴が、黄泉の国の理を根底から激しくねじ曲げていく。
色のない虚無の世界が歪に収縮し、遥か彼方にあったはずの灰色の地平が、引き裂かれるような音を立てて、文字通り目の前へと【手繰り寄せられた】。
光の収束のなか、目の前に、求めていた姿が忽然と現れる。
「――モモ!」
それは、魂を引き裂くような、渇望の絶叫であった。
「――姉上? なぜ、ここに居る」
にわかに無音の風を震わせて響いたのは、虚ろな死者の抜け殻などではない。現世のあの無骨な響きをそのままに残した、モモの本物の聲音であった。
「モモ……っ!」
トトは歓喜に胸を突き動かされ、その胸へと縋りつこうと、手応えのない灰の地肌を蹴って真っ直ぐに手を伸ばした。
だが、その指先が弟の白い麻衣へと触れる、まさにその刹那であった。
正面で自分を見つめ返すモモの肉体が、現世の赤土の温もりを完全に失い、この色彩なき冥府の灰色へと、じわじわと透き通るように鎔け合い始めている。その残酷な事実を、トトの炯眼は冷徹に視据えていた。
言葉は交わせる。けれど、その存在はすでに死の深淵へと沈みかけているという、引き返せぬ冥府の現実。
――だが。
「姉上。すぐに引き返せ」モモの声は、明確な拒絶を放った。
「姉上はまだ生きている。だから、こんなところにいちゃいけない。来ちゃいけなかったんだ」
「俺だって会いたかった。……だけど、これじゃ駄目なんだよ」
「……モモ」
モモの拒絶に、トトの顔が歪む。
と、不自然に空間が歪んだ。
色彩も音も喪われたはずの灰色の平原。その虚無の空間が、生者であるトトの放った絶大な霊力の熱(生の温もり)を嗅ぎつけ、現世の理を完全に排除せんと烈しく破綻し始めたのだ。
うねる白霧の向こう、その異質な「生」を毟り取って喰らい尽くそうとする黄泉の亡者たち。そのおぞましき色彩なき異形の影が、狂おしく歪む空間の裂け目から、音もなくおどろおどろしく湧き出し始める。
「――姉上には触れさせん」
色彩なき冥府の風を切り裂き、モモの引き抜いた大和の神剣【布都御魂の写し】の白刃が、一烈の閃光を放った。
若き王は、灰色に透き通りかけた自らの魂を烈しく連動させ、迫り来る亡者たちの異形を、その白銀の刃で次々と泥臭く斬り伏せていった。
戦いは、過酷な消耗戦へと一気に雪崩れ込んでいく。
灰の砂地。モモの草鞋が地を蹴る音さえもしない。ただ、神剣が亡者たちの影を両断する、その刃のキレの残光だけが、色のない世界に冷徹な白銀の軌跡を描き続ける。
斬れども斬れども、歪む空間の奥から無限の津波の如く湧き出し続ける亡者たち。その圧倒的な数の暴力の前に、モモの足元は次第に灰の砂地へと押し込まれ、その魂は激しく疲弊していった。ついには、神剣の刃さえもがその冴え渡る輝きを失い、昏く、曇り始めていく。
「――モモ、下がって! わたしがっ……!」
最愛の弟の崩壊を前に、トトは自らの内に眠る絶大な霊力をさらに解放し、現世の禁呪の力で亡者どもを排しようと、その細き両手を正面へと突き出そうとした。
「……止めろ、姉上」
しかし、トトの前に片腕を突き出して制したのは、息を切らせ、神剣の柄を握る指先を血に染めたモモであった。若き王は、残された最後の眼差しを姉へと向け、どこまでもぶっきらぼうに、けれど優しき声音で、その魂を諭した。
「その力は、現世へ帰るために使うべきだ。……姉上は、あいつらの元へ生き届かなきゃいけない。ここで無駄に使い潰しちゃだめだ」
自分はもう死者だからいい。けれど、生者である姉を現世へ引き返させることこそが、己が果たすべき最後の宿命なのだという、引き返せぬ武人の覚悟。
――お前を失って、わたしひとりが生きて帰って、何の意味があるというの。
トトが狂おしいほどの焦燥と懊悩に胸を締め付けられ、喉の奥を血の味で引き裂きそうになった、まさにその瞬間であった。
極限の絶望の底。トトの炯眼の視界に、再びあの足元の「生命の緑」が、烈々たる色彩を伴って飛び込んできた。
色なき世界のなかにあって、そこだけが狂ったように鮮烈な生の輝きを放つ、異質なる光。
トトの胸の奥底から溢れ出た「モモを死なせない」という絶対の情念。そして、己の身を挺してでも姉を現世へと帰そうとする、モモの命懸けの覚悟。
二つの王道が至近距離で激しく共鳴し、モモの魂に宿る「清らかな桃の霊気」が絶大なる最高神力と完璧な相乗を見せた、まさにその刹那であった。
彼らの足元――虚無の地肌を引き裂いて、一本の小さな【木の芽】が爆ぜるようにして産声をあげる。
神剣の光が完全に失われ、亡者どもの牙が二人の魂へと届かんとしたその一瞬。その小さな「生」という異質の存在が、色のない世界を拒絶するようにして静かに、けれど烈烈と眩い色彩を放ち始める。
世界が完璧な暗転を迎えた、まさにその瞬間であった――。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
これまでの、本格的な戦記という様相から一転、ファンタジーの味付けとなっています。
黄泉の国(あるいは黄泉平坂)を描写するにあたり、それがどのような世界なのかを改めて考えたものです。
当初の案では、普通に洞窟でした。
ファンタジーRPGには定番の、剥き出しの岩盤を思い描いていました。
が、可能な限り「死」のイメージを想起してみたところ「色彩のない世界」「音のない世界」「時間や距離という概念のない世界」などが思い浮かび、それがここでの描写となっています。
自身の圧倒的な霊力で、モモとの邂逅を引き寄せたトト。
しかし彼らに、亡者たちが襲ってきます。
このピンチをどう切り抜けるのか。
次回をお楽しみに。
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