西道将軍の勅命
窓のないその部屋は薄暗く、幾重にも焚かれた微かな篝火だけがちろちろと揺れる。
その篝火が作るモモの影もまた、所在なげに力なく揺れ動く。姉、トトの予知を裏付けるようにも感じられた。
大和盆地の東、纏向の宮殿の最奥。
ひんやりとした冷たい板敷きに平伏するモモ(五十狭芹彦)の横で、同じく額を床に擦りつけているイヌ(犬飼健)の大きな身体が、緊張で強張っているのが分かった。
二人の視線の先には、天井から幾重にも垂れ下がった、分厚い御簾がある。
その向こうに鎮座する、この国の絶対権力者――大王の姿は見えない。ただ、篝火に照らされた不気味な巨大な影と、衣の擦れる擦過音だけが、重苦しい静寂を支配していた。
トトの口からあのぶつ切りの神託が零れ落ちてから、わずか数日。
大和の情勢は、恐ろしいほどの速度でその通りに動き、そして完結していた。
山背で朝廷への反旗を翻した武埴安彦の軍勢は、トトの予言通り、朝廷が派遣した四道将軍らの手によって電光石火で鎮圧され、叔父の首はすでに大和の土に晒されている。
姉の予知能力は、本物だった。
だとするならば、その「次」の予言――モモが次の生贄になるという最悪の未来もまた、確定した宿命として、すぐ目の前まで迫っていることになる。
「——五十狭芹彦よ」
御簾の向こうから、地を這うような低く冷徹な声が響いた。
部屋の温度が、さらに一度下がったかのように錯覚する。
「そなたの姉、百襲の姫がもたらした神託は見事であった。山背の叛徒は露と消え、大和の平穏は守られた。……だが、不穏な火種は未だ西国に残っておる」
大王の声に合わせて、御簾の向こうの影がわずかに動いた。
「討ち取ったハニヤスの懐から、西の海賊王・温羅が送った密書と、吉備の精強なる鉄器が見つかった。ハニヤスを唆し、大和を東西から切り刻もうとした真の『鬼』は、吉備の地に健在なり。温羅を討ち、西国の鉄と海の利を朝廷へ奉らねば、大和に真の安寧はない」」
御簾の向こうから、有無を言わせぬ絶対的な「覇道」の意志が、冷たい風となって吹き付けてくる。
(姉上の予知どおりだ。――とすると、俺もまた、この遠征で消えゆく運命ということか。……だが、俺にはこれを撥ねつけるだけの力は――ない)
モモは薄暗い床を見つめたまま、胸の中で静かに、自嘲気味につぶやいた。
先日、布留山で賊を瞬く間に斬り伏せた己の刃。巷で「百の敵を襲う凶牙」と畏怖される己の武勇。しかし、そんな個人の武力など、この大和朝廷という巨大な『国家』の歯車の前では、何の役にも立たない。勅命を拒めば、それだけで自分も、そして最愛の姉トトも、叛徒として一瞬で圧し潰されるだけだ。
ならば、行くしかない。
たとえその先に、死という名の奈落が口を開けて待っていようとも。
「——五十狭芹彦よ。そなたに西道将軍の称号と、西国平定の勅を授ける。大和の猟犬となりて、吉備の鬼を噛み殺してまいれ」
御簾の向こうから大王の低く冷徹な声が響くと同時に、その脇に控えていた影が静かに動き出した。
衣の擦れる擦過音と共に、御簾をくぐって現れたのは、朝廷の祭祀を司る神職の老人であった。
その顔には呪術的な白い化粧が施されており、まるで生きながらにして能面のようになった男が、その両手に一振りの大刀を恭しく捧げ持っている。
側近は音もなくモモの前まで歩み寄り、冷たい板敷きの上へ、その大刀を滑り込ませるようにして差し出した。
それは、数日前にモモが布留山で命懸けで守り抜いた朝廷の神剣『布都御魂』――その姿をそっくりに模して大和の熱い鉄で打たれた、名工の手による「写し」であった。
本物の神剣を守った功績への恩賞として、側近の冷たい手を介して授けられた、偽物の神剣。
朝廷によるその皮肉な計らいは、輝かしい将の信などではない。負ければ大和の威信を失墜させ、勝っても温羅と刺し違えさせるための、美しく飾られた「生贄の祭壇」への片道切符だ。
「……謹んで、拝受いたします」
モモは一切の感情を殺した声で応じ、両手を伸ばしてその重い大刀を受け取った。
その隣で、モモと並んで平伏していたイヌ――犬飼健はというと。
ギリッ。
若くして生贄としての運命を言い渡された皇子への憐憫と、それを冷酷に命じる朝廷の非情さへの怒りを、歯を食いしばり、固く拳を握りしめて堪えていた。
イヌは朝廷の規律に縛られた忠実な武官だ。だからこそ、この「西道将軍」の拝命が、生きては大和へ戻れぬ体裁のいい追放劇であることを、誰よりも正確に察知していた。
(大王様……、あんまりだ。十五の若輩を、吉備の鬼と刺し違えさせるおつもりか……!)
「犬飼健よ。そなたを西道将軍の副将とし、目付けを命ずる。皇子の刃となり、盾となり、大和の威光を西国へ示せ」
能面の老神職の口から、イヌへの命令が下る。
「……御意。この命に代えましても、皇子をお護りいたします」
イヌは、張り裂けそうな胸の痛みを押し殺し、ただ一言、低く応じるしかなかった。
*
纏向の宮殿を退出した二人の上に、大和の容赦のない秋の日差しが降り注いでいた。
背負った大盾を揺らしながら歩くイヌは、先ほどから一言も発しないモモの横顔を、痛ましげに見つめる。
「……皇子。本当に、よろしいのですか」
「何がだい、イヌ」
「吉備の温羅は、瀬戸内の海をすべて支配する、底の知れぬ大悪鬼にございます。朝廷は、あなた様を――」
「イヌ。俺の名前は長すぎるだろう?」
モモは歩みを止めず、大和の青い空を見上げたまま、ふっと悪戯っぽく笑った。その瞳には、絶望など微塵も濁っていない。
「朝廷の人たちは、俺を百の敵を襲う『百』だと恐れて、あの島へ送り出した。……でもね、俺の姉上は、悪いものを遠ざけて国を護る『桃』だと言って、その命を半分くれたんだ。だったら、俺の往く道は最初から決まってる」
モモは腰に帯びた「布都御魂の写し」の柄をぽんと叩き、前を見据えた。
「往こう、イヌ。大和の覇道のためじゃない。俺を信じて待ってくれている、姉上のために」
その真っ直ぐな言葉と、背中に宿る圧倒的な英雄の器。
イヌの胸の中で、朝廷の猟犬としての己が、静かに死んだ。
(この御方だ。俺が命を懸けて護るべき、真の主は――)
「はっ! このイヌ、どこまでもお供いたします!」
初回ということで、第1話からこの第3話まで一気に進めてまいりました。
以降、午前7時と午後7時の一日二回の投稿を目指そうと考えております。
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