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桃の香りと、血塗られた神託

第1話に続き、すぐの更新です。第2話、どうぞ!

 ――夜明け。

 徐々に遅くなりつつある朝日が昇りはじめ、同時に朝霧がうっすらと晴れていく。


 大和の夜を支配していた冷気が引くとともに、神の鎮まる雄大な三輪山が、ゆっくりとその青き稜線を現していった。


 夜明けの風が庵の庭を吹き抜け、神事に使われる大麻(おおあさ)の、青々とした清冽な匂いを縁側まで運んでくる。


 昨夜の血生臭い戦いが嘘のように、朝の光が庵の縁側を優しく満たしていた。


「——さあ、姉上。昨夜の布留山(ふるやま)の騒ぎも、これでようやく片付きましたよ」


 昨夜、あれだけの賊を白銀の刃で斬り伏せたとは思えないほど、優しく穏やかな声。

 そう言って、モモ(五十狭芹彦)は小刀を器用に動かし、実ったばかりの桃を剥きはじめた。


 その瞬間、縁側の空気に桃の瑞々(みずみず)しい香りが弾けた。


 モモが差し出した、薄く剥かれた一切れの果実。


 トトは視界の焦点を結ばない瞳をかすかに動かし、弟の差し出した桃を小さく食んだ。みずみずしい果汁が、彼女の青白い唇を湿らせる。


「……ありがとう、モモ。でも、本当に怪我はなかったの? 巷(ちまた)ではまた、あなたを『百の敵を襲う、大和の凶牙』だなんて呼ぶ声が聞こえてくるわ。私は、それがとても哀しいの」


 トトの沈んだ声に、モモは苦笑した。

 自分の長すぎる本名——五十狭芹彦(ひこいさせりひこ)を口の中で呟いてから、肩の力を抜いて縁側の柱に背を預ける。耳の横で高めに結われた、ツインテール風の変形美豆良(みずら)が、彼の動きに合わせて軽快に揺れた。


「しょうがないさ、姉上。俺の本当の名前は長すぎて、誰も戦場で呼んでくれないからね。それに、朝廷(うえ)の人たちが俺を『百を斬るモモ』として怖がってくれた方が、姉上に変な下心を出す不届き者も減る。好都合だよ」


「違うのよ、モモ」


 トトは静かに首を振った。

 そして、昨夜あれだけの賊を白銀の刃で斬り伏せたとは思えないほど優しい、弟の大きな手を、自分の両手でそっと包み込んだ。彼女の手のひらから、大麻の清冽な匂いと、冷ややかな霊気が伝わってくる。


「あなたが生まれた時、私の強すぎる霊視の呪いを吸い出してもらうために、私の『百襲(モモソ)』の命を半分、あなたに分けたの。そして大和の古い神職が言ったわ。この子の魂には、あらゆる呪いを焼き尽くす、清らかな桃の霊気が宿っている、と」


 トトの焦点の合わない瞳から、一滴の涙がこぼれ、モモの手の甲に落ちた。


「だから私は、あなたを『モモ』と呼ぶの。人を殺すための『百』じゃないわ。悪いものを遠ざけ、いつかこの大和に、光満ちる平穏をもたらすための『桃(モモ)』なのよ。どうか、そのことを忘れないで」


 モモは一瞬だけ、大和の宮廷が自分に向ける冷徹な視線を思い出し、目を伏せた。だが、すぐにいつもの爽やかな、少年らしい笑みを浮かべて姉の頭をぽんぽんと叩いた。


「わかってるよ、姉上。俺の『モモ』は、姉上の命の半分だ。誰がなんと言おうと、この力は、姉上と、この国の優しくて弱い人たちを護るために使う。約束するよ」


「――皇子!ここにおられましたか!」


――ドス、ドス、ドス。


 大和の静かな庭に、およそ不釣り合いな重い足音が響き、朝の柔らかな空気が震えた。


 現れたのは、身の丈ほどもある木製の重盾を背負った巨漢、犬飼健(いぬかいたける)である。

 朝廷の規律通りに、耳の横できっちりと丸く結われた硬派な角髪(みずら)を揺らし、額の汗を拭った。


「健(たける)、朝から騒々しいぞ。せっかくの桃の香りが台無しだ。ほら、お前も食うか?」


 モモが剥きたての果実を一切れ差し出す。


「……いただきます。っ、美味い! ではなく! 皇子、のんきに果物を食している場合ではございません!」


 イヌは一瞬だけ人当たりのいい顔をほころばせて桃を頬張ったが、すぐにその表情を神妙なものへと引き締めた。背負った盾の隙間から、大和の武官服である鹿革の胸当てが、彼の重い呼吸に合わせて軋む。


「昨夜の布留山の戦後処理を終え、朝廷へ報告に上がったのですが……賊の懐から、極めて不穏な物が出てまいりました。……山背(京都)を治める、武埴安彦(たけはにやすひこ)命の私印です」


 モモの眉が、ピクリと跳ね上がった。


「ハニヤスの叔父貴か……。あのお方も朝廷(うえ)への不満を募らせていたが、まさか本気で謀反を?」


「それだけではございません。賊が所持していた武具は、大和の鍛冶が打ったものではありませんでした。あれは、西国――吉備(きび)の極上の鉄で作られた刃です」


 その言葉が落ちた瞬間、縁側の空気が凍りついた。

 山背の反乱分子と、西海を統べる海賊王・温羅(うら)が裏で手を結んでいる。それは大和朝廷を東西から挟み撃ちにする、巨大な転覆計画の全貌を意味していた。


 突如、トトの身体が激しく震えはじめた。

 彼女の瞳の奥で現世の景色が掻き消え、血塗られた『未来』の断片が、脳裏へ強制的に叩き込まれる。


「ひ、姫様!? また神託が……っ」


 イヌが慌てて駆け寄ろうとするが、トトはそれを手で制し、血の気の引いた青白い唇を震わせた。彼女の喉から、掠れた予知の声が漏れ出す。


「……見える。山背(やましろ)の川……赤く、血で染まる。……ハニヤスの、叔父様……兵を、大和へ……っ」


「何ですと!?」

 イヌが息を呑む。山背の武埴安彦が、本当に大和へ攻め込んでくるというのか。


「……けれど、それは、すぐに終わる。朝廷の将軍たちが、叔父様を、討つ……。……問題は、その、次……っ」


 トトは冷ややかな霊気をはらんだ両手で、モモの手を痛いほどに強く握りしめた。

 焦点の合わない彼女の瞳が、涙を流しながら、まっすぐに弟の顔を捉える。その視線は、現世のモモではなく、未来の彼の『結末』を見つめているようだった。


「吉備の……温羅(うら)。朝廷の刃は、西の鬼へ向く……。……そして、その矢面に、立たされるのは……っ」


 激しい過呼吸の合間から絞り出された、最期の言葉。


「モモ……あなたよ。あなたが、次の、生贄に……」


 大巫女の唇から零れ落ちた、最悪の未来予測(しんたく)。

 それが、少年を絡め取る宿命の鎖の、始まりの音だった。

剥きたての桃を分け合う、姉弟の静かな日常でした。しかし、彼らに大和朝廷の不穏な影が迫ります……。続く第3話「西道将軍の勅命」は、このあとすぐ【7時20分】に投稿されます!

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