覇王への謁見、覇道への執念
西の小径を突き進んだモモたちの眼前に、ついに温羅の居城の心臓部――その無骨なる【奥殿】が姿を現した。
立ち込める高炉の赤き鉄煙が夜霧と混ざり合い、視界を不気味に遮る最奥の空間。
その大殿の重き門扉の真前には、これまでの尖兵どもとは明らかに格の異なる、温羅の最後の護衛兵たちが蟻の這い出る隙もなくひしめき合っていた。
それは、大和の重圧に追いつめられた温羅が、失政を重ねてでも吉備の独立を死守せんとした、焦燥の結晶であった。王の抱く痛痒のすべてを、肉体の壁に変えたかのような、重武装の親衛隊がそこに立ち塞がっていた。
男たちは誰も口を開かず、ただ黒鉄の盾をガチリと噛み合わせる。命を捨てる覚悟の据わった冷徹な眼光だけで、迫り来るモモたちの濃藍の影を睨み据えていた。
一歩でも進めば、今度こそ本物の死闘が始まる。
それは、喉の奥を鉄の味で締め付けられるかのような、極限の膠着であった。
しかし、戦斧を肩に担ぎ直したモモの前に、横合いから一進。無数の戦痕が刻まれた、満身創痍の重盾を構えたイヌが、じり、と最先頭へと進み出た。
「――皇子。ここは、拙者が血路を開こうと存じまする」
地鳴りのような咆哮とともに、イヌは重盾を正面へと打ち出した。強固な黒鉄の壁を見据え、その巨大な肉体へと全質量を乗せるべく、赤土の床を深く踏みしめる。
――軋み、そして、内側から爆ぜるような裂音。度重なる混戦、そしてこの最奥に立ち込める高炉の異常な熱気に晒されたことで、あの重盾は内側から急速に自壊し始めていた。致命的なひび割れを抱え、最後の防壁へと突撃せんとするその踏み込みの圧力に、もはや悲鳴をあげることしかできない。
だが、イヌはその巨躯ごと護衛兵の盾衾へと激突する。
モモのために温羅のいる奥殿の門をブチ破らんとした、世界が静止するような、まさにその一瞬であった。
大殿の内側から、地鳴りの如き重き質量を伴った、一人の男の声音が響き渡った。
「――大和の軍勢か。通せ」
覇王・温羅。
ついにその首魁の肉声が放たれた。護衛の兵たちが無言のまま左右へと割れ、奥殿の黒き深淵が、モモたちの眼前に大きく開かれていく。
「皇子、これは罠かも知れませぬ」
盾を前に身構えたまま、イヌが低く具申する。
「さて、どうであろうな。しかし罠であろうとて、もうここまで来ているのだ。歓迎に乗らぬ道理はあるまい」
モモは不敵に喉を鳴らすと、肩に担いだ吉備の黒鉄の戦斧を静かに握り直した。
王のその一切の躊躇なき進発の号令を背に浴び、大和の兵たちは、ついに温羅の待つ奥殿の暗黒へと、その泥臭き足を一歩、深く踏み出していった。
大和の一行は、無言のまま先導する温羅の近衛の案内に従い、奥殿の回廊を静かに進んでいった。
――地を揺るがす黒鉄の叩き音は、奥へ進むほどにその重みを増していく。
無言で行進する大和の足音すら、高炉の鳴らす凄まじい重低音が容赦なくかき消していた。
やがて一行は、広大なる大部屋へと辿り着く。
赤赤とした火床の光が夜霧と混ざり合い、世界を異形に染め上げる空間の最奥。
石の無骨なる玉座に鎮座し、泥にまみれたモモたちの姿を悠然と見下ろしていた、吉備の主。
温羅であった。
大和のそれとは明らかに異なる、百済の気高き血脈を思わせる高く峻しき鼻梁。
その異国の骨格を縁取るのは、高炉の猛火を浴び続けてきた技術者特有の、鉄の焦げた匂いを帯びた無骨な髭と、逞しく磨き上げられた岩のような肉体であった。
大和の圧迫によって、その表情の端端には、王としての余裕を削がれ続けた生々しい焦燥の皴が深く刻まれている。しかし、その奥底で烈烈と燃え盛る双眸は、未だ吉備の王としての絶対の威厳を失ってはいなかった。
覇王のその鋭き双眸が、モモの肩にある吉備の戦斧へと静かに向けられた。
にわかに張り詰めた極限の静寂を破り、大部屋の石壁を震わせるような重き声音が、玉座の上から放たれる。
「よく来たな、大和のお客がた。……まずは、我が国への遠路はるばるのご到着を【歓迎】しよう」
それは、不敵にして傲然たる笑みであった。
しかし、モモの曇りなき眼光はすでに捉えていた。玉座の覇王が浮かべるその笑みが、大和の圧力に毟り取られ続けた余裕のなさ――凄まじき焦燥と痛痒の裏返しに他ならぬことを、確かにその五感で感じ取っていた。
大部屋の石壁を震わせる、温羅のその傲然たる聲音。
だが、モモはその不敵な挑発を、一瞬の烈しき眼光で撥ね返した。
肩の戦斧を赤土の床へと無造作に突き立て、玉座の覇王を真っ正面から睨み据えて、その凛とした声を放つ。
「――吉備の者たちへの圧政を止めろ、温羅」
それは、大王の勅を奉じてこの地へと上陸し、過酷な失政に喘ぐ領民たちの涙を受け止めながら進んできた、大和の王道としての、曇りなき糾弾であった。
「あの鉄山の地獄を視た。なぜそれほどの製鉄の秘術を持ちながら、民を鞭で打ち据え、使い潰すような鬼の真似をする。お前がその玉座で守ろうとしているものは、民の屍の山なのか」
モモの放った、真っ直ぐすぎる言葉の刃。
それを正面から浴びた温羅は、一瞬の沈黙ののち、高く峻しき鼻梁を歪に吊り上げ、大部屋の天井を揺るがすような、冷酷で悲痛な哄笑を響かせた。
「ハ、ハハハハハ! 圧政、と申したか、大和の皇子よ……っ!」
笑う温羅のその顔に、余裕を削がれ続けた生々しい焦燥の皴が激しく波打つ。覇王は玉座の肘掛けをその剛腕で烈しく叩きつけると、血の滲むような怒号を、モモの喉元へと叩きつけてきた。
「では、貴様ら大和が地方に対して恭順を強いている。それは圧政とは呼ばぬのか?」
大部屋の石壁を烈しく震わせる、覇王の冷酷な反論であった。
「大王の勅という綺麗な正義を掲げてこの地に土足で踏み込み、我が吉備の誇る黒鉄の秘術を締め付け、従わねば軍勢を差し向けて滅ぼす。……その貴様らの強欲な足音がじわじわと迫り来るなかで、吾が余裕を失い、一刻も早く城を築き、武器を打たねばならなかったのはなぜか! お前らが攻めてこねば、俺が民を鞭で打ち据えることも、裏切り者を冷酷に処刑することもなかったのだ!!」
貴様ら大和の脅威こそが、かつて民を飢えから救った己を苛政の地獄へ追い詰め、領民を使い潰す『鬼』へと変え果てたのだ。それは、あまりにも生々しい、温羅の魂の慟哭に他ならなかった。
「――っ」
モモは、息を、詰まらせた。
過酷な失政に喘ぐ吉備の領民たちを救うことこそが、己が掲げる大和の王道であると疑わず、泥をすすりながらこの険路を這い登ってきたのだ。
しかし、温羅の放ったその言葉の刃は、大和の朝廷こそがすべての元凶であるという、逃れられぬ歴史の因果そのものであった。
己が奉じてきた正義の裏側に潜む、侵略者としての冷酷な業。
モモの双眸は激しく揺らぎ、手にした戦斧の柄を握る指先が、言葉にならぬ烈しい懊悩のなかで、微かに、けれど狂おしく震え始めていた。
沈黙が、奥殿の広大なる大部屋を冷酷に支配する。
誰もが息を詰め、二人の王の魂の擦れ合いを凝視するなか、玉座の温羅はふっと笑みを消し、その岩のような巨躯をゆっくりと立ち上がらせた。
「――語るべき言葉は、すべて尽きたわ」
覇王のその無骨な剛腕が、玉座の傍らに立てかけられていた、吉備の黒鉄の巨大な棍棒を鷲掴みにする。
「降る気など、もとよりない。我が吉備の独立と鉄の富を奪わんとするならば、大和の皇子よ――お前のその薄っぺらき王道とやらで、俺の首を力ずくで撥ねてみせよッ!!」
――轟然たる大音。
地鳴りのような咆哮とともに、温羅の巨躯が石の床を烈しく蹴り割って突進した。大和の朝廷への呪いと、吉備の自立を死守せんとする妄執のすべてを乗せた、覇王の先制の一撃。
迫り来る暗黒の質量を前に、モモは、喉の奥から猛烈な血の味を吐き出すようにして、己の胸奥の懊悩を力任せに噛み殺した。
――お前が吉備を守るために鬼になったというなら。
俺は、たとえ侵略者の汚名を背負おうとも、この過酷な失政に喘ぐ民を救うために、お前の覇道を喰い破る。
「――おおおおおおッ!!!」
モモは狂おしく双眸をカッと見開いた。震えていた両腕で吉備の戦斧を全霊の力で引き絞り、頭上から襲い来る温羅の黒鉄の棍棒へと、真っ正面から突撃を仕掛ける。
大和の王道と、吉備の覇道。
二つの歪なる大義が、ついに暗黒の奥殿で激しくぶつかり合い、凄まじい鉄音の火花が爆ぜる。
まさに、その激突の一瞬であった――。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
ついに、モモたちは温羅の眼前に辿り着きました。
しかし、温羅との対話は、大和と吉備、それぞれの正義のぶつかり合いでしかありません。
あくまでも大和朝廷というシステムを超え、「圧政に苦しむ民を救いたい」という願いを込めたモモ。
それに対して温羅は、その圧政の因果に大和朝廷が起因しているのだ、と突きつける。
大王の勅に縛られ懊悩するモモに対して武を以て応えようとする温羅の行動は、あるいは慈悲なのかもしれません。
次回、いよいよ温羅との決戦です。
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