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百襲の慧眼、森彦の宿願

「――モモ、止まって……ッ!!」


 激しい頭痛に耐えかね、己のこめかみを死に物狂いで押さえていたトト(百襲媛)が、カッとその眼を剥(む)き、血を吐くような悲鳴をあげた。


 その絶叫が夜気へと放たれた、まさにその一瞬であった。


 モモの草鞋(わらじ)が赤土を噛んだ。凄まじい地響きとともに、その肉体を罠の手前でカチリと踏み止まらせる。すぐ隣を駆けるイヌの巨躯(きょく)も、岩壁を蹴って寸前で完全に静止した。


――刹那、右の石壁の死角から、地鳴りのような鉄音が爆ぜる。


 姿を現したのは、数千の黒鉄(くろがね)の槍を構えた、温羅(うら)の精鋭部隊。

 完璧な呼吸で突き出された必殺の鉄槍の津波は――しかし、ただ虚空の夜霧だけを烈しく引き裂き、凄まじい空振りに終わった。


「な……っ!? なぜ突入してこないッ!」

「気づかれたか!?」


 死角の先で驚愕の怒号を上げ、大混乱に陥る温羅の兵たち。


 敵の狼狽(ろうばい)をその眼差しで冷徹に捉えながら、モモは手にした戦斧(いくさおの)を構え直した。


 ――ひやり、と冷たいものが頬を伝う。

 間一髪であった。


 あの一瞬、足を止めねば今頃は肉塊に変えられていた。こめかみから顎へと滴る冷や汗を、モモは手荒く拭(ぬぐ)う。


 だが、その恐怖の残滓(ざんし)を、若き王は一瞬の咆哮で灼(や)き尽くした。


「怯むな、喰い破れッ!!」


 それはイヌやキジのみならず、背後に控える大和の全軍へと叩きつけられた、若き総大将の苛烈なる号令であった。


 モモは黒鉄の戦斧を容赦なく振り下ろし、空振りの体勢から戻りきっていない最前列の兵たちを、その鎧ごとまとめて叩き潰す。

 その一撃を火蓋(ひぶた)として、背後の濃藍(こいあい)の影たちが地鳴りの如き足音とともに一斉に連動した。間を置かず、イヌの重盾が残る兵を圧殺し、キジの放つ矢の雨が死角の奥を射抜く。追随する大和の兵たちの怒濤の槍衾(やりぶすま)が、大混乱の敵陣を容赦なく蹂躙(じゅうりん)していった。


 あまりの初速の狂瀾(きょうらん)に、温羅の精鋭たちは恐怖に戦慄(わなな)き、武器を構えたままじり、と一歩後退した。


 ――戦場に、にわかに張り詰めた膠着(こうちゃく)の静寂が訪れる。


 ふぅ、と一息つき、モモは戦斧を握らぬ方の手で手荒く汗を拭(ぬぐ)った。そして、先ほど窮地を救ってくれた姉へと真っ直ぐに向き直る。


「……その目、やっと戻ったか、姉上……っ!」


 振り返ったモモの双眸(そうぼう)には、大和の最高峰たる巫女の、その奥底に神懸(かみが)かりの色彩を蘇らせた実姉の――凛とした輪郭が映し出されていた。


 安堵するモモたちとは対照的に、サルの背筋を冷たいものが這(は)った。


(あの小娘、どうして気づいた……!?)


 これまで、己が間者(かんじゃ)であることは完璧に隠し通してきたはずだった。

 確かに、出会った瞬間から今まで、小娘は猜疑の眼差しを向けてきてはいた。しかし、明確な行動に移ることはなかった。ゆえに、大和の神託など取るに足らぬと侮(あなど)り、放置していたのだ。


 それなのに――。


 死角の奥で温羅(うら)の伏兵たちが狼狽(ろうばい)する地鳴りのなか、トトはこめかみを押さえていた手を静かに離した。


 青白いその顔のまま、完全によみがえった巫女の炯眼(けいがん)が、サルの面の裏側を真っ直ぐに射抜く。


 トトの眼は、いまや伏兵の罠だけを視(み)てはいない。


 大和の重圧に追いつめられた、温羅(うら)の失政。

 見せしめとして処刑された、サルの両親の血。

 そして――どれほど手を泥で汚そうとも、東門の鍛冶工房で檻(おり)に繋がれた【仲間】の命だけは死守せねばならぬという、この男の胸の奥底の狂おしい妄執。


 その血塗られた全貌(ぜんぼう)を、トトはすべて視据(みす)えていた。


 だが、トトはその口から「間者」の二字を、断罪として放ちはしなかった。


 ただ、声を殺した極限の戦場のなかで。森彦の痛ましき背中へ向けて、底冷えするほどに静かな、けれど誰もが拒めぬほどに気高き声を、ポツンと落としたのだ。


「――あなたは、東の工房に向かいなさい」


 その一言が放たれた瞬間、サルの面の裏側で、時が完全に凍りついた。


 間者であることを指摘すらされず、ただ、自分が命を懸けて這い回ってきた唯一の動機――【東の工房】の存在を完璧に見透かされ、そこへ行けと背中を押されたのだ。


(……な、なんで、お前がそれを知ってやがる……!?)


 サルの脳髄を、恐怖を通り越した凄まじい戦慄が貫く。

 大和を罠に嵌(は)めようとしていた己の冷徹な覚悟は、この身体の弱い少女が示した、圧倒的な王道の器(じひ)の前に――今度こそ跡形もなく粉々に打ち砕かれようとしていた。


「へ、へへ……」


 じり、と後ずさりしたのは、大和の巫女(みこ)への畏怖か。あるいは同胞への想いか、それとも――胸に秘め続けた、凄まじい後ろめたさゆえか。


 それを断ち切るように、サルは踵(きびす)を返した。

 もはや後ろを振り返ることもなく、闇の中へと一目散に駆けだした。


 その間者の不器用な背中が、高炉の鉄煙の向こうへと完全に消え去っていく。

 背後では、漆の剥げ落ちた重盾(しげたて)を構え直すイヌも、強弓の手元を冷徹に引き締めたままのキジも、裏切り者をあのように無傷で逃がした巫女の判断に、武人としての割り切れぬ沈黙をその眼差しに宿していた。


 だが、誰もが言葉を発せぬ静寂のなかで、モモのみが戦斧(いくさおの)を肩へと担ぎ直し、実の姉へと真っ直ぐに向き直った。


「――いいのか」


 すべてを察しながらも、姉の覚悟を信頼して泳がせてやった、若き王の無骨な問いかけであった。


「モモなら、そうするだろうと思ったのよ」


 トトは静かに、けれど誇らしく弟を見つめ返した。

 公(おおやけ)の主従の枠を超え、互いの抱く「すべてを泥臭く包み込む王道」を完全に信じ合っているからこそ言える、絶対の因果の同期(どうき)がそこにはあった。


 その姉の曇りのない眼差しを正面から浴び、モモはふっと、面の裏側で不敵に奥歯を鳴らした。


「――ああ。姉上の言う通りだ。行くぞ、あいつの開けてくれた死角を、根こそぎ喰い破る!」


 モモは、サルが消え去っていった方角とは真逆――西の小径(こみち)を睨(にら)む。

 その小径の遥(はる)か先。大和(やまと)を遥々(はるばる)と発ち、幾多の死線を越えてこの地まで攻め入った宿願のすべて、温羅(うら)の居城が夜霧のなかに黒々と聳(そび)え立っていた。

  ついに鬼ノ城場内での戦闘が始まりました。

 吉備の地に着いて以来、トトにずっと付きまとってきた温羅の呪いの霧、そしてサル――楽々森彦の間者としての行動。

 以前にも書きましたが、トトの眼こそが、サルの目論見を看破する最大の障害でした。そして、どこでトトの眼が戻るか。そしてサルに対して、どのように接するか。

 単純に「裏切り者」として断罪するわけにはいかない状況での最善手が、この27話での、トトの「あなたは東の工房に向かいなさい」だった、と考えるわけです。

 さて、次回、いよいよ温羅との決戦です!

 モモは温羅と、どのような会話をし、どのように戦闘は推移するのか。

 そしてイヌの盾はどうなってしまうのか。


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