大和の王道、吉備の痛痒
川を背にし、城の真裏を行く険しき山中。
息の詰まるような城郭への登攀が始まった。
陽が完全に死に絶えた暗闇のなか、一行はむき出しの岩肌と、這うように絡み合う巨木の根に指先を突き立て、垂直に近い峻険な斜面を音もなく這い上がっていた。
容赦なく衣服を切り裂く茨の棘。わらじを滑らせる赤土の泥濘。
声をあげることすら許されぬ極限の隠密行のなかで、身体の決して強くはないトトの呼吸は、とうに限界を迎えていた。
もともと大和の神懸かりをその細き肉体で背負い、吉備の地についてからは温羅の呪縛による激しい頭痛に苛まれ続けてきた巫女である。
絶え絶えになる息。
泥と汗にまみれ、凍るような夜気に白く滲む吐息。這い上がる指先は冷たく、力なく震え始めていた。
――ずるり。
濡れた赤土に足元をとられ、トトの華奢な輪郭が闇の底へと滑り落ちそうになった、まさにその寸前であった。
先頭を行くモモが音もなく反転し、その泥に汚れた掌で、トトの細い手首をガチッと力強く掴み止めた。
王の曇りのない双眸が、声を殺したまま、静かに巫女の青白い顔を見つめ据える。
大丈夫だ、焦るな。
語る言葉はなくとも、その掌から伝わってくる大和の王の圧倒的な体温と覚悟が、トトの折れかけた芯を泥臭く支えていく。
さらにすぐ後ろからは、遊撃の士であるキジが、トトの背中をいつでも抱き止められる間合いのまま、自らの肉体を壁にして足元を静かに見守り続けていた。
指先に巻かれた包帯から黒き血を滲ませながらも、キジの玲瓏たる眼光は、トトが小石ひとつ下へと蹴り落とさぬよう、その進路の死角を冷徹に索敵し、手際よく支えを入れ続けているのだ。
最も先頭を進むのはイヌ。
その無骨な巨躯を限界まで低くすると、彼はトトやモモの進路を塞いでいる太き枝や茨を、音を立てぬよう慎重に押し拓いて進んでいく。
漆の剝げ落ちた重盾は、間もなく訪れるであろう決戦の瞬間のためにイヌの背で静かに眠っていた。
綺麗事の兵法などでは決してない。
声を殺した静寂のなかで互いの肉体を等しく労い、泥まみれになって支え合う主従――いや、戦友たちの絆がそこにはあった。
その本物の光の温かさを、最先頭から時おり振り返って見下ろす森彦は。
斜に構えた表情とは裏腹に、その胸の奥には、喉をかきむしりたくなるほどの凄まじい後ろめたさを秘めていた。
(……おいおい、大和の王様。何でそんな、身体の弱え小娘一人を、誰も見捨てねえでここまで引っ張ってこれるんだよ……)
大和からの圧力が、じわじわと迫りつつある。
王としての余裕を失った現在の温羅様には、もう後がなかった。
一刻も早く城を築き、武器を鋳造する。そのためなら自国の領民を鞭打つことも、裏切り者を冷酷に処刑することも厭わない。
楽々森彦は、そんな王の痛々しいまでの焦燥を、誰よりも理解していた。
かつて吉備を飢えから救ってくれた、あの優しきお方が「鬼」へと堕ちていく。
その失政の悲劇を、森彦は誰よりも間近で見つめ続けてきた。
――すべては、大和(お前ら)のせいだ。
その憎しみだけが、彼を支える楔だった。
それなのに、目の前の一人を守るために、自らの肉体を泥に染めて進むモモたちの王道は、あまりにも残酷なほどに眩しかった。
大和への怒りで満ちていたはずの胸が、張り裂けそうになる。
それは森彦の理解を遥かに絶した、抗いようのない光の奔流だった。
いまの温羅様が間違っていることなど、分かっている。
だが、あのお方をそこまで追い詰めたのは、他ならぬ大和(お前ら侵略者)の圧倒的な脅威じゃねえか。
それなのに、お前らがそんなに優しくて、本物の王の器を見せつけるから――。
東門の鍛冶工房に残された、本当の【仲間】の命を守るため、大和を次の罠へとハメねばならぬ己の心は……その呪いは、もう言い訳の立たねえところまで、粉々に引き裂かれちまってるんだよ。
懐の短刀の柄を固く握り締め、サルは胸の奥の割り切れぬ未練を必死に圧殺しようともがいていた。
だが、頭上の夜霧の向こう、崖の斜面がにわかに平坦な地肌へと姿を変える。
一行の眼前に、防備の最も手薄なあの【鬼ノ城の北門】――その黒く無骨な輪郭が、ついに現れたのだった。
門の向こうからは、大和の軍勢が裏山の崖を這い登ってくるとは夢にも思っていない、看守の鬼たちの無警戒な息遣いが微かに漏れ聞こえていた。
誰もが音もなく足を止め、極限の静寂が夜気を支配する。
その最中、森彦は面の裏で歪な喉鳴らしを響かせ、声を潜めて短く囁いた。
「着いたぜ、大和の王様。さぁて、ここからどうするんだ?」
その調子外れの聲音は、主君を促すお調子者を演じながらも、大和の軍勢を己の仕掛けた【二つ目の罠】の底へと引きずり込む、冷酷な開門の合図であった。
モモは何も言わず、自身の神剣【布都御魂の写し】の柄から静かに手を離した。代わりに、奪い取っていた吉備の黒鉄の無骨な戦斧を、両腕で固く握り直す。
暗闇のなか、キジが己の強弓を満月のごとく引き絞る。
――ひゅう、と鉄煙を切り裂く乾いた弦の音。放たれた一矢が、門の隙間から覗いていた看守の喉笛を音もなく射抜いた、まさにその刹那であった。
「おおおおおッ!!」
モモは地鳴りのような咆哮とともに突進し、手にした戦斧を全霊の力で叩きつけた。
――刹那、世界が爆ぜるような鉄音。そして、骨を震わせる凄まじい衝撃。
木端微塵の破砕音とともに、北門の太き木の閂が真っ二つに叩き折れる。防備の薄い門扉は、凄絶な勢いで内側へと吹き飛んだ。
「曲者だッ!!」
「大和の軍勢が、なぜ裏山から――」
悲鳴と怒号が交錯するなか、大和の濃藍の影たちは、怒濤の如く鬼ノ城の内側へと雪崩れ込んでいく。
奇襲は、完璧に大成功を収めた――はずだった。
だが、破られた門の向こうに広がっていた城内の光景は、モモたちの想像を遥かに超える、異形なる『温羅の焦燥』そのものであった。
立ち込める赤々とした高炉の鉄煙。百済の先進の技をもって築かれた、複雑怪奇な石壁の回廊。
大和を迎え撃ち、吉備の自立を死守するためだけに、夜を徹して黒鉄を叩き続ける凄まじい地鳴りが、城内の奥底から響き渡っていた。
大和の圧力に余裕を失い、失政を重ねてでも牙城を固めようとした温羅の、それは目を覆わんばかりの狂気の痕跡であった。
「――キシ、キシシシッ! 混乱に乗じて一気に奥へ駆け抜けな、大和の王様!」
大混乱に陥る看守どもを短刀で斬り伏せながら、森彦は面の裏側で歪な声を張り上げた。
サルが指し示す進路の先、高炉の煙の向こう側には、ついに男が命懸けで守ろうとしていた【東門の鍛冶工房】――その仲間の檻たる黒き鉄格子が、うっすらと浮かび上がり始めていた。
――これでいい。このまま大和が温羅様の城内を喰い破れば、オレの仲間は助かる。
そのためなら、オレはどれほど後ろめたかろうとも、お前らを最後の死地へと嵌めてみせる。
サルが自らの未練を完全に割り切り、大和の首脳陣を『二つ目の罠』――あの過酷なる高炉の火床へと自発的に飛び込ませようとした、まさにその刹那であった。
「――モモ、止まって……ッ!!」
激しい頭痛に耐え、己のこめかみを死に物狂いで押さえていたトト(百襲媛)が、カッとその眼を剥き、血を吐くような悲鳴をあげた。
モモたち一行は、いよいよ鬼ノ城の北門に到達しました。
身体が強いとはいえないトトを引き連れての登攀に、一行の一体感を表しつつ、サル――楽々森彦の葛藤を描き、彼我の精神的距離感を描いてみました。
温羅。
吉備津彦の物語では、この吉備地方を支配していた海賊、そして鬼であるように描かれていますが、史実によれば、百済から渡来し、この地方で製鉄技術をもたらし、一大王国を築いた豪族、あるいは英雄であったのだろう、と言われています。
英雄が、鬼へと堕ちていく様子を知るからこそ、サルは葛藤したのだろう、と思うのです。
そんなサルが仕掛けた、第二の罠。
そして、綻びの隙間から先見することに成功したトトの叫びは、モモにとどくのでしょうか?
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