血吸の遡上、巫女の懊悩
「これは……まるで血が流れているようだな」
それが、真っ赤に染まる川を見たモモの、素直な感想だった。
夜陰のなか、経山の巨大な東壁がもたらす深い死角に身を潜めながら、一行は音もなく渓谷の水際を北上していた。
「ああ。血吸川ってな。温羅が虐げてきた、この吉備の民の血が流れてるって話さ」
キシッ、と猿が口の端を歪に吊り上げながら答える。
男は泥まみれの鉢巻きを指先で直すと、いつもの人を食った笑みを貼り付けた面のまま、どす黒く濁った赤き川面を無造作に短刀の尖で指し示してみせた。
その言葉は、大和の兵たちの怒りを温羅へと仕向けるための、完璧な嘘の伝承。
川が泥の如く赤いのは、吉備の山々から削り出された剥き出しの赤土と、上流にある温羅の巨大な炉底から絶え間なく流れ出る【鉄の脂】の汁が混ざり合っているが故の、この土地の莫大なる富の証であった。
吉備の職人である森彦は、この水に交じる泥の匂いと重みだけで、上流でどれほど凄まじい規模の製鉄が行われているかを肌で知っている。
しかし、男はそれを冷徹に隠蔽し、大和の敵意をさらに煽るための擬態の牙を研ぎ澄ましていた。
すぐ西の山頂――あの最も厳重に守られた「西門」には、温羅の狂信的な領民の壁と、最強の精鋭部隊が待ち構えている。
そこを敢えて素通りし、経山の遮蔽を利用して北上し、最も防備の薄い「北門」から城内へと一気に攻め入る、奇襲の寸法。
案内人としてのサルの知略に寸分の狂いも無かった。
このまま北門をブチ破れば、そのすぐ内側にある【東門の鍛冶工房】へと最短で突入し、囚われている己の同胞たちの檻を自らの手で粉砕できるのだ。
(これでいい。大和の王様、お前らがその綺麗な王道とやらで温羅様の虚を突いてくれなきゃ、オレの仲間たちは助からねえんだよ……!)
腹の底で血を吐くような冷徹な割り切りを固めるサルの、その細き背中――。
「やはり、温羅の呪いが解けかけている。――でもあと一歩足りない。その深淵を覗こうと凝らせば、逆にこちらが呑まれてしまいそう」
喉の奥までせり上がる激しい目眩に耐えかね、トトは青白い顔のまま、心の中で狂おしく呟いていた。
サルの大和への未練が、確かにこの吉備本土の呪霧を内側から綻ばせている。
しかし、森彦という男の胸の奥底に沈む、温羅への憎悪と吉備の仲間を護るための冷徹な執念は、あまりにも昏く、重い泥濘に満ちている。
その因果の深淵を神懸かりの眼で無理に暴こうとすれば、まだ戻りきらぬ己の魂ごと、暗黒の底へと引きずり込まれてしまいそうなほどの闇――。
前を行く森彦の背中に、あまりにも気を取られすぎていたのだろう。
トトは夜闇のなかに剥き出しになっていた、這うような巨木の根に、不意に足を取られて激しく体勢を崩した。
――しまった。
声を殺して赤土の床へと転びそうになった、まさにその刹那であった。
「――大丈夫か、大和の巫女」
暗闇のなか、風の如き手際でその細い腰を優しく、しかし確実に支えたのはキジであった。
指先に巻かれた包帯から、先ほどの強弓の死闘で滲んだ黒き血の匂いが微かに漂う。
大和のそれとは根底から異なる、吉備の戦を生き抜いてきた遊撃の士。
その甲冑の裏にどこか浮世離れした玲瓏たる美貌を秘めたキジの鋭き双眸は、主君の進路を静かに警戒しつつも、夜闇に隠された死角と、サルの張り詰めた背中を、最初から冷徹に索敵し、見守り続けていたのだ。
トトは、キジのその戦慣れした無骨な、けれど驚くほどにしなやかな掌の体温にハッとして息を呑み、慌ててその身体を離すと、恥じ入るように小さく頭を下げて再び歩みを速めた。
言葉を交わす暇すら惜しい、息詰まる隠密の行進。
一行はさらに西の山壁へと深く回り込み、わらじが赤き泥水を跳ね上げる不気味な音とともに、あの鬼の釜から北側、血吸川の最上流部にあたる、鬱蒼とした源流の深い渓谷へと、静かに潜り込んでいった。
陽が完全に死に絶えた暗闇のなか、最先頭を行くサルの合図でふいに一同が足を止め、天を仰ぎ見た、まさにその瞬間であった。
――息を、呑んだ。
鉄煙の夜霧がにわかに引き裂かれたその向こう側、垂直に切り立った断崖の頂から、崖下の軍勢を冷徹に見下ろしていたのは、天を圧するほどに巨大な黒い影の輪郭であった。
覇王・温羅の絶対なる牙城――鬼ノ城の巨大な城壁。
陽の光を失ったその巨躯は、まるで山そのものが巨大な鬼の肉体となり、大和の軍勢をいまにも踏み潰そうと足元へ立ち塞がっているかのような、おぞましいまでの高低差の威圧感を放っていた。
サルの提案どおり、正面の西門の監視を完全に欺き、経山の遮蔽を利用してここまで深く北上することには完全に成功した。
だが、これからあの垂直に近い険しき山脚を、息を潜めて「北門」へ向かって這い登らなければならないのだ。
いよいよ元凶の真裏の真下(死角)まで辿り着いたという、喉の奥を鉄の味で締め付けられるような圧倒的な絶望感と緊迫感。
だが、大王の勅を胸に奉じたモモの双眸には、その威圧の黒影を真っ正面から睨み返す、烈烈たる王の炎が燃え上がっていた。
「……行くぞ。足元に気をつけろ」
モモの静かな、けれど地鳴りのように固い一言が、夜気に染み入る。
イヌが音もなく先頭へ滑り出し、その無骨な背が闇を押し拓く。
誰もが己の胸奥に割り切れぬ後ろめたさと疑惑の火種を抱えたまま、大和の濃藍の影たちは、ついに鬼城の峻険なる山脚へと、その泥臭き足を深く踏み出していった。
川を背にし、城の真裏を行く険しき山中。
息の詰まるような城郭への登攀が始まったのである。
モモが、目の前を流れる血吸川の赤き流れを見て「まるで血のようだ」と例えました。
現代に生きる我々は、それが酸化鉄であることを知っています。
しかし、古代の人々、モモたちにとってはそれが血の川ように見えたとしても、不思議ではありません。
この付近には、他に赤坂池や地の子池などもありますが、これらの名前も「赤」は血の赤、「地」の字はもともと「血」だったのではないか、と推察できます。
さて、吉備の地についてから、トトの先見の能力を封じてきました。
森彦の間者としての立ち位置を真っ先に看破できるトトの存在は、作者である僕の、一番の悩みの種でした。
そこで考えたのが「温羅の呪い」。
これが、吉備に生きる人々の心に楔のように打ち込まれていて、それが原因で先見ができない、としました。
しかし、モモやイヌの心意気に絆され、徐々にその呪いに綻びを生じ、トトは森彦の心の内側を垣間見ることができました。
もう、温羅との決戦まであとわずか。
果たして、どのような展開を迎えるのか、見届けていただけると幸いです。
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